駅前広場に女神像があること、知ってはりますか?実は、前は戎橋、その前は大丸前にありました。大阪の剛毅な彫刻家による作品にはこんな秘話がありますねん。

駅前広場のバラ園の中のブロンズの女神は、右手を頭上に掲げ左手は地面を指さしています。天と地が平和で満たされるように、との願いがこめられています。

大空襲で焼け野原となった大阪の復興の象徴として、大阪府民らの寄付をもとに約300万円(当時)をかけて世界に誇れる彫刻作品をつくろうと、府や市、大阪商工会議所などによる委員会が大丸心斎橋店前の東南角に女神像を建設したのは1950年(昭和25年)。

 

ところが1973年(昭和48年)、大丸心斎橋店外壁の拡張工事に伴い、戎橋の北詰のキリン会館前(当時)に移転します。さらに、戎橋の架け替え拡張工事に伴い平成16年に撤去され倉庫で一時保管、市がシンボルにふさわしい移転場所を検討した結果、人通りの多い南海なんば駅ビル前の広場に決めたものです。昭和28年に建設された別の白い女神像と並んでいますが、植込みの中なにあるので近寄ることはできません。

女神像を制作したのは彫刻家の彫刻家・日高正法氏。生前、日高氏は女神像について「芸術家の名を売るための作品ではない」と話し、自分の名前を頑として入れなかったため昭和48年に女神像を移転することが決まった際、大阪市が制作者を探し回ったというエピソードが残っています。

難波駅前の広場化が実現したら、多くの人々にこの伝説に日が当たるとよいですね。
■日高正法宅(平和の塔・女神像)
日高正法(せいほう)は1915年(大正4年)生まれ。平成18年、91歳で死去。関西を代表する彫刻家のひとりで、後に二科会の名誉理事も務めた。根っからの芸術家気質で、気に入らない作品は「こんな駄作、後世に残したらあかん」と金づちで壊すこともあったという。安住の地を得たことを、娘でソプラノ歌手の川下由理さん(58)は喜び「焼け野原になった大阪の街の発展を願う当時の人々の思いがこの作品には宿っている。次の世代に受け継がなければならない」とコメントした。日高氏は彫刻活動の傍ら、大阪市立長池小学校でも図工の先生をしていたこともある。


【平和の塔に記載された文字】
戦争の惨禍に脅かされ 虐げられた私たちに 戦争を憎み 平和を愛好する
世界が戦争の不幸をくりかえすことがあってはならぬ 私たちは人類のために 永遠の平和を祈念する
世界平和に貢献するためには 平和国家を日本において打ちたてねぎならぬ 私たちはこれを目指して たゆみない努力を続けている
平和を愛し 祈念し 平和国家の建設に努める私たちの姿を表徴したいという大阪府民の熱望が 平和塔となって生まれた
塔の型は府民の投票で決定され 建設場所には かつて 大阪市の中心標があり 私たちになじみ深いこの地がえらばれた
建設基金は府民から寄せられた 平和を希求する熱誠が 塔を築きあげたのである
昭和二十五年五月
提唱 大阪新聞社
協賛 大阪府 大阪市 大阪商工会議所
製作 モニユマン美術協会

事務局やまもと