なんば広場の「平和祈念」の像~大阪の都市美の実現を志した人々の物語

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平和祈念の像とは

なんば駅前に白い像が置かれ、像の台座の正面には「朗風」と書かれています。初代公選大阪市長近藤博夫氏による揮毫です。台座の反対側のレリーフには「平和祈念」と書かれ、寄贈者の名前には美交社、協賛者の名前と発案者として日本都市美推進連盟と記されています。この像は、1953(昭和28)年に南海なんば駅前に設置され、その後グリーン広場の整備に伴い植栽の中に「平和の塔・女神像」と並ぶように再設置されました。

なんば駅前広場の改造前(1988年)の左側に「平和祈念の像」が確認できる  写真提供:南海電気鉄道株式会社

さらに2022(令和4)年から始まったなんば駅周辺道路空間再編工事により歩行者中心の広場として整備されたことに伴い、この像が生まれた経緯をふまえて広場と御堂筋の接点にあたる場所に御堂筋(北)に向かって再設置されました。

像には説明版が設置され、QRコードをかざすと多言語でこの像の紹介文を読むことができます。なんば広場は11月23日にオープンし、多くの人々が像と一緒に記念撮影をしたり、紹介文をのぞきこんだりしています。

この像は、日本においてパブリックアートという言葉がまだ知られていない時代に、戦後大阪の復興とあわせて都市美の実現を志した当時の現役の洋画家有志の寄付により設置されたものであり、その実現には大阪の美術振興に深く貢献した一人の画商の存在がありました。

なんば広場を行き交い、記念写真をとり、待ち合わせする人々の光景
なんば広場に設置され、除幕のときを待つ「平和祈念の像」

平和祈念の像の寄贈の経緯について

整備間もない御堂筋沿いに、美交社という美術ギャラリーが1936(昭和11)年に開設されます。主宰は美津島一氏でしたがその実弟である美津島徳蔵氏が実質的に運営していました(本名は水嶋徳蔵、美交社では藤川と名乗り、後にフジカワ画廊を創設。)。

(大阪)都市美を誇る御堂筋の街景(刊年不明)
白黒 本体の書名[大阪名所絵葉書][1]、大阪市立図書館ホームページデジタルアーカイブ

第2次世界大戦の終戦後、日本政府は戦後復興に向けて輸出を推進することで外貨の獲得と市民生活の再建を進めたことから、徳蔵氏は戦前から日本に伝承されてきた貴重な西洋絵画が流出することに断腸の思いを抱きながらも復興に協力し海外のコレクターと掛け合い売却に尽力しました。

一方で氏は大阪の都市美の実現を志す当時の現役の洋画家有志の寄付をとりまとめ、彫刻家の吉田久継氏の協力を得て像を制作し、大阪市に寄贈します。

像が寄贈されたときの詳細な記録はありませんが、弥代郁夫氏(株式会社フジカワ画廊取締役)は当時の経緯を次のようにコメントされています。「平和祈念の像が設置されたのは1953(昭和28)年ですが、彫刻を手配するには数年の年月を必要と思われることから、終戦後に大阪に戻った美津島徳蔵氏が戦後大阪の復興とあわせて都市美の実現を志し、当時の現役の洋画家有志の寄付をとりまとめて彫刻家の吉田久継氏の協力を得て、日本都市美推進連盟を立案者とし美交社が寄贈する形で実現したのではないか。」そしてその意をふまえて、御堂筋の南端であるなんば駅前に設置されたものと推察されます。

再整備前のなんば駅前に設置されていた平和祈念の像(2022年撮影)

像を寄贈した美交社と美津島徳蔵氏

徳蔵氏は戦後の1947(昭和22)年に同じ淀屋橋の美津濃ビルの3階にフジカワ画廊を開いて独立、洋画商の第一人者として業界の発展にも尽力しました。

1984(昭和59)年には、山本發次郎氏が収集した佐伯祐三の名作数十点を含む美術コレクションの大阪市への寄贈を仲介します。さらに、大島靖大阪市長が近代美術館設立を決定した翌年の1989(平成元年)年には作品購入資金として1億円を大阪市に寄付しています。近代美術館はその後、2022年2月に「大阪中之島美術館」として開館しました。

大阪市が御堂筋彫刻ストリートを1992(平成4)年に始めたとき、美津島氏は「御堂筋都市美運動を讃えて~近代彫刻巨匠代表作展」(1992(平成4)年5月)を開催し、展覧会図録の中で御堂筋や大阪の都市美、平和記念の像のことに以下のように思いをつづられています。

「美交社ができた当時は現役の画家のための画廊は大阪に一軒もなく、作家らの作品出資で誕生した。画廊には作家が集まり様々な議論の一つに大阪の街づくり、とくに御堂筋に関心が高く寄せられ、大きい空間のある通りの角には、大彫刻を飾るべきだとか、樹間に彫刻を飾ることなど意見が交わされた。やがてそれが両側の企業の協力でペリカン型のゴミ箱の設置や花を飾ることにもなり、吉田久継さんの協力で彫刻も一点だけ御堂筋の南端の髙島屋デパート前に設置され今に残っている。」と平和記念の像の経緯にふれています。さらに、「いよいよ今度、市長(当時西尾正也市長)のお声がかりで地元企業のご協力をお願いし、御堂筋の樹間に彫刻を飾り、国際都市のメーンストリートとして立派なものに整備されるとのこと、行政がリーダーシップにならねば都市美の成功はない。誠にもって嬉しい限りである。」。

御堂筋ギャラリー(写真の作品は「掲示(日高正法)」)

像の作者と美津島徳蔵氏の経歴

像の作者の吉田久継氏(1888(明治21)年~1963(昭和38)年)は東京出身で東京美術学校(現東京芸大)を卒業しています。1918(大正7)年文展に初入選、1920(大正9)年「霊光」で帝展特選となりのち帝展審査員を務めました。エッチングも手がけ、1929(昭和4)年洋風版画会創立に参加。日展評議員。本名は久次。

美津島徳蔵(本名:水嶋徳蔵)略歴

1936~45(昭和12~33)年の10年間、作家のギャラリー美交社〈大阪・代表者美津島一(実兄)〉のもとで藤川と名乗り、実質的な経営に当たる。

1947(昭和22)年にフジカワ画廊設立、1949(昭和24)年日本洋画商協同組合を同志と共に設立。

1953(昭和28)年大阪市東区(現中央区)瓦町に画廊ビル建設(設計・監督 村野藤吾氏)、同年なんば駅前に「平和記念の像」を寄贈。
1970(昭和45)年日本洋画商協同組合理事長。
1976(昭和51)年藍綬褒章受章。

1984(昭和59)年山本清男氏所蔵(佐伯祐三の名作数十点を含む)山発コレクションを大阪市へ寄贈を仲介、大島靖大阪市長が近代美術館設立を決定。

1989(平成元年)年フランスより芸術文化勲章の最高位コマンドール授与、勲三等瑞宝章授章。大阪市へ近代美術館設立準備作品購入資金として1億円寄付。京都日仏会館建設資金寄付。

1992(平成4年)年御堂筋美化運動を讃え、『近代彫刻代表作展』開催(大阪店)。

1995(平成7)年阪神淡路大震災による近代美術館復旧義援金、阪神淡路大震災特別義援金を寄付。

1997(平成9)年死去。

(フジカワ画廊ホームページより山本が編集)

株式会社フジカワ画廊 www.fujikawa-galleries.com

フジカワ画廊は1953(昭和28)年に堺筋沿いにビルを建設し淀屋橋から移転、現在は大阪店がその一画で営業しています。フジカワビルの設計は建築家の村野藤吾氏が手がけ、2021年には国の登録有形文化財に指定されています。

大阪店 大阪市中央区瓦町1丁目7番3号 フジカワビル3F

東京店 東京都中央区銀座8丁目5番4号 銀座マジソンビル3F

綿密な調査にもとづき修復された像

建物の装飾や立体サインなどを手がける専門会社が像の修復に当たり、慎重かつ根拠をもった補修方法を検討したうえで、次の修復まで長期間設置できることを考慮して劣化などが遅れるよう材料選定を行うなど、できる限り綺麗な状態でより長く次世代まで残せるようにとの考えで修復が行われました。

3Dスキャンによるデータ作成、材質調査分析(破砕試験+X線調査)、クラックや破損空洞部の調査が念入りに行われました。

その結果、鉄筋で構成された骨組みにコンクリートを充填し、外皮はしっくい又はモルタル材料で造られていること、像は劣化が進んでおり、コンクリートと外皮との間に空洞が発生し雨水が溜まる等劣化が進みやすくなっていることがわかりました。

空洞部の充填や劣化部分などを素材に合った材料で補修を行うなど、外見では確認できない部分もしっかりと修繕されています。

外皮の塗装は、下塗りには中性化防止、鉄筋の腐食・劣化防止、長寿命化(風雨、紫外線、凍害、等の防止含む)に効果をもつ塗料を使用し、上塗りには高耐久のフッ素樹脂塗料が使用されています。

出典

出典:「近代彫刻巨匠代表作展(1952年、フジカワ画廊発行)」

   日本人名大辞典(講談社)

本原稿執筆に当たり、株式会社フジカワ画廊の天方光彦専務取締役、弥代郁夫取締役大阪店の両氏に聞き取りや推敲のご協力をいただきました。

当該記事については山本英夫(戎橋筋商店街振興組合事務局長)が執筆しました。

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