平和を祈願する市民の思いが込められた、大阪・なんば広場の女神像

2023年11月、人の広場に生まれ変わるなんば広場の中に、南海ビルを背景に立っているブロンズ色の像が「平和の塔・女神像」です。市民の世界平和への思いが込められたこの像が制作された経緯、なぜ四度にわたり移転することになったのか、そして像の作者のことを詳しく紹介します。

目次

建てられた経緯

第二次世界大戦で大阪は度重なる空襲によって一面焦土と化しました。戦後復興の中で大阪新聞社、世界の平和と平和国家の建設を祈願する像の制作をよびかけ、大阪府や大阪市、大阪商工会議所が協賛し制作委員会が設置されました。その建設資金として大阪の多くの府民や商店、会社から託された寄付をもとに約300万円(当時)をかけて制作されました。

終戦直後のなんばの商店街(個人蔵)

大阪新聞社は大正時代に大阪で創業、織田作之助や司馬遼太郎らが執筆に関わった、大阪に根差した地方紙でした(平成14年に現産経新聞夕刊に統合)。

平和の塔・女神像は、1950年(昭和25年)11月の新憲法発布3周年記念日に設置、披露されました。式典には在留米軍の司令官や吉田茂内閣総理大臣も参列され祝辞を述べられました。

女神像はブロンズ製で、当時は4本の支柱上部の台座の上に乗っていました。台座には鐘が取り付けられ、感謝と希望の気持ちを込めて一日3回鳴らされました。

場所は、大丸心斎橋店前の東南角で、この場所には元々大阪市の中心標があり、設置された1925年当時は大阪市の人口が急増し市域が拡張され大大阪と言われた時代でした。「市運の悠久を象徴する(大阪市会議長白川朋吉氏談)」場所として中心標が設けられた場所に、平和を祈願する女神像が設置されたのです。

設置された平和の塔・女神像(一番右が日高正法氏、写真提供:川下由理氏)
平和の塔の序幕を報じる大阪新聞(写真提供:川下由理氏)

三度にわたる移転

1973年(昭和48年)、塔が近接する建物の防火対策の事情から女神像は移転することとなります。場所は戎橋北詰の戎橋キリン会館前(当時、現デカ戎橋ビル)。この時、台座は老朽化のために解体されたことから、像だけが設置されました。

戎橋の北詰に設置された女神像(像の向こう側に戎橋筋商店街のゲートが見える)

さらに、戎橋の架け替え拡張工事に伴い2004年(平成16年)に撤去され倉庫で一時保管されます。工事完了後は戎橋周辺に設置できる場所がなかったことから、大阪市がこのシンボル像にふさわしい移転場所を検討した結果、人通りの多い南海なんば駅前のグリーン広場に決まります。そして、2009年(平成21年)、すでに駅前に設置されていた「平和の像」と並ぶように植栽の中に設置されました。

整備前のなんば駅前に設置されていた平和祈念の塔・女神像

この場所はその後、なんば駅周辺道路空間再編事業が進められ、人中心の広場へと生まれ変わることになりました。2022年の工事着手とともに一時保管されていましたが、大阪市と地域が相談しこの女神像の趣旨をふまえて、なんば広場内に再設置されることになりました。

なんば広場パース提供:南海電鉄

その場所は、昭和初めの歴史的建築物である南海ビルを背景にしたシンボリックな姿を見ることができます。この像が設置された経緯をふまえて、世界的な観光拠点として活動する市民を見守るように広場に向いて設置されました。

本像の修理には建物の装飾や立体サインなどを手がける専門会社が、慎重かつ根拠をもった補修方法を検討したうえで綺麗な状態で次世代に引き継げるようにとの考えで修復にあたりました。3Dスキャンによるデータ作成、きずの調査が行われ、ブロンズ製の像を傷つけないよう底部の既存モルタルの撤去作業や、仕上げ塗料の色合わせと塗装仕上げ作業が慎重に行われました。

像には説明版が設置され、QRコードをかざすと多言語でこの像の紹介文を読むことができます。海外からの観光客の方にも、大阪の平和のシンボルであることを知っていただけます。

なんば広場内に設置された女神像

女神像の作者

作品は、右手を頭上に掲げ左手は地面を指さし、天と地が平和で満たされるようにとの願いがこめられています。

女神像の制作は彫刻家・日高正法(せいほう)氏(1915(大正4)年~2006(平成18)年)に依頼されました。関西を代表する彫刻家のひとりで、後に二科会の名誉理事も務めました。作品の創作は天王寺美術館の地下室で行なわれました。

依頼を受けた女神像について日高氏は「自分の名前を売るための作品じゃない、みんなの思いを表す作品だから」と話し、自分の名前を頑として入れませんでした。1973年(昭和48年)に女神像を戎橋に移転することが決まった際、大阪市が制作者を探し回ったという逸話が残っています。

日高氏は屋久島出身で中学生の頃家族と大阪に移り住み、彫刻家の黑岩淡哉氏に師事し彫刻を学びます。黑岩淡哉氏は東京美術学校(現東京芸術大学)の彫刻科の第一期生で助手兼教務掛となり大阪府立職工学校に出向し大阪で美術彫刻の教授に勤め功績から勲六等瑞宝章を受章した方です。彫刻活動の傍ら独学で教師の免許を取得、大阪市立長池小学校(阿倍野区)で美術の教師としても勤務されました。

氏の作品は大阪市内では御堂筋彫刻ストリートの淀屋橋から5ブロック南の西側(「啓示」)をはじめ各地で見ることができます。

御堂筋に展示されている「掲示」

●日高正法氏経歴

昭和10年 二科展に初入選

昭和14年 大阪市紀元2600年奉祝美術展にて 大阪市長賞受賞

昭和15年 第1回大阪市美術展にて大阪市長賞 受賞

昭和26年 二科展にて特選受賞

昭和27年 二科展にて会友推挙

昭和30年 二科会会員に推挙

昭和46年 二科会会員努力賞受賞

昭和52年 二科展にて総理大臣賞受賞

昭和60年 二科会理事

●主な作品

○白浜海岸に「真白良媛の像」 建設

○大阪市開港100年祭に天保山に「交流の像」建設 

○大阪市地下鉄都島駅に「光」のレリーフ制作 

○松山市文化会館に「希望の像」 建設

○吹田市立図書館に「真理」のレリーフ制作

○まいづる文化会館に「まいづるの像」 建設 

○徳島文化会館に「レリーフ」 制作

○青森県尾上町立中学校に「宇宙」 レリーフ制作 

○大阪市阿倍野区長池公園に「太陽の像」制作

○奈良県王寺町に「みちびきの像」 制作 (王寺町役場玄関横)

○奈良県王寺町王寺霊園に「崇祖像」及び噴水「天 と地の像」制作

○上六ハイハイタウンにモニュマン 「スワン」建設

○大阪南港に「海の詩」レリーフ制作

なんば駅周辺空間再編事業に寄せて

日高氏の長女でソプラノ歌手の川下由理さん(大阪市在住)は次のコメントを寄せてくださいました。

「この度、難波駅前空間再編事業にあたりミナミが美しく生まれ変わろうとしています。そしてその計画の一つとして、私の父が残した 『平和の塔・女神像』 もう一つ 「平和祈念の像(朗風』 が再び共に設置されたことは本当に嬉しく思っております。

大阪市には保管されたまま眠っている芸術作品がたくさんあると聞きます。その中で父の作品を”眠らせてはいけない!”と判断してくださったことにとても感 謝いたしております。

でもそれは、父の作品であるから、というよりも焼け野原になった大阪の街で、悲嘆に暮れた人々の平和を願う心の叫びのシンボルであるからではないでしょうか。 そして、二度と戦争は起こしてはいけない!と共感している今生きる私たちの想いでもあるからです。焼け野原に投げ出された人々の一抹の光としてこの彫刻は永遠に生き続けていくのではないでしょうか。」

平和の塔に記載された文字


戦争の惨禍に脅かされ 虐げられた私たちに 戦争を憎み 平和を愛好する
世界が戦争の不幸をくりかえすことがあってはならぬ 私たちは人類のために 永遠の平和を祈念する
世界平和に貢献するためには 平和国家を日本において打ちたてねぎならぬ 私たちはこれを目指して たゆみない努力を続けている
平和を愛し 祈念し 平和国家の建設に努める私たちの姿を表徴したいという大阪府民の熱望が 平和塔となって生まれた
塔の型は府民の投票で決定され 建設場所には かつて 大阪市の中心標があり 私たちになじみ深いこの地がえらばれた
建設基金は府民から寄せられた 平和を希求する熱誠が 塔を築きあげたのである

平和の塔・女神像

昭和二十五年五月
提唱 大阪新聞社
協賛 大阪府 大阪市 大阪商工会議所
製作 モニュマン美術協会

参考文献:大阪新聞夕刊(発刊日不詳)、産経新聞朝刊(2009年3月3日)

    「大大阪イメージ : 増殖するマンモス/モダン都市の幻像 」橋爪 節也(編著) 発行:創元社

     KTVスポーツ大賞トロフィー趣意

取材協力 川下由理氏

本記事は戎橋筋商店街事務局長の山本英夫が執筆しました。

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