大阪ミナミに刻まれた物語――碑を歩き巡って再発見しよう、この街の記憶

 道頓堀や法善寺横丁、なんば駅前――大阪ミナミの名所には数多くの碑やモニュメントが点在しています。しかし、前を通り過ぎても気づかないことも多く、しかも由来を知るととても身近なことが多くて、驚きの連続です。

 映画興行の始まりを伝えるレリーフ、一粒文楽黄金時代を支えた竹本座跡、一粒300メートルを考案したコピーライターの大阪川柳、織田作之助が描いた法善寺の情景、そして戦後大阪の平和への願いを刻んだ女神像の秘話・・・。

 ミナミの碑は単なる記念物ではなく、芝居・文学・芸能・商業・都市復興といった大阪の歴史そのものを映し出す「街の語り部」です。

 食べ歩きだけでは見えてこない、もう一つのミナミがそこにあります。本記事では、なんば広場から道頓堀まで十一の碑をたどりながら、この街が育んできた文化と人々の物語を紹介していきます。地図を片手に巡ってみてください。

まずはなんば広場界隈から3つのスポットをご紹介しましょう。

目次

なんば広場付近の3つのスポットをご紹介

①平和の塔・女神像

 3年前にオープンした「なんば広場」に立つ女神像に気づかず、前を通り過ぎていませんか。実はこの2つの像には、戦争を経験した大阪人の切実な願いが込められています。

 まず、ブロンズの方は「平和の塔・女神像」。第二次世界大戦で焦土となった大阪の復興と世界平和を願い、市民や企業の寄付によって昭和25年(1950)に建立されました。当初は心斎橋に設置され、戎橋の北詰を経て現在のなんば広場に移転を重ねました。そのいきさつが、台座のレリーフに書かれています。

 右手を天に、左手を地に向けた姿には、「天地が平和で満たされるように」という願いが託されています。作者は彫刻家・日高正法。自身の名声ではなく市民の思いを表す作品として制作したと伝わります。

② 平和祈念の像

 なんば広場に立つ白い方の像。像の正式名称は「朗風(ろうふう)」で、台座には「平和祈念」の文字が刻まれています。

 昭和28年(1953)、画家や彫刻家たちが寄贈しました。平和であることはもちろん、大阪が、文化や景観を感じる美しい都市として復興してほしいという思いが込められました。

 そして、この像の寄贈をとりまとめた画商である美津島徳蔵氏は、大阪の画廊の草分けとして、様々な役割を果たします。今日、中之島美術館に所蔵されている佐伯祐三ほかの作品の仲介も徳蔵氏が担いました。そんな経緯から、この像は御堂筋にむけて再設置されたのです。

 では、なんば広場から戎橋筋商店街に向かい、TOHOシネマズなんばの1階エレベーターホールに入ってください。

③映画興行発祥の地のレリーフ

体験博でレリーフを紹介する田中副店長(なんばマルイ)

「大阪が日本映画文化の出発点だった」――そんな意外な歴史を伝えるレリーフが、TOHOシネマズなんばのエレベーターホール奥に設置されています。

 明治29年(1896)、なんばでは日本初の「映画の試写」が行われ、その3か月後の明治30年(1897)、人々はここで初めて“動く映像”を目の当たりにしたのです。日本で初めて有料で映画の上映が行われた場所がここにありました。現在の建物の2代前、ミナミの花街文化がまだ旺盛な時代に建てられた、南地演舞場です。その跡地に、戦後、阪急東宝グループの創業者、小林一三が南街会館を建てます。一三は映画興行発祥の地であることを知らなかったことをレリーフにしたためています。

 なんばから道頓堀には映画館が並び、日本有数の映画街として発展した時代の記憶を、そのレリーフが伝えています。その前に立てば、明治の観客たちが感じた驚きと熱気が少し想像できるかもしれません。

 では、戎橋筋商店街を北上、千日前通をわたり、法善寺の境内へ。

法善寺の境内にある2つの碑

④織田作之助の碑(法善寺横丁)

法善寺横丁といえば水掛不動ですが、文学好きなら見逃せないのが織田作之助の碑です。

 大阪を代表する作家・織田作之助は、戦前から戦後にかけてミナミの路地の風景や人間模様を作品に描き続けました。代表作『夫婦善哉』では、法善寺界隈を舞台に、だめだと分かっていても離れられない男女の情愛が生き生きと描かれています。

 法善寺横丁に面して建てられた碑には作品の一節が刻まれており、石畳の横丁に文学の余韻を残しています。織田作之助の碑の前では、昭和のミナミに流れていた人情や哀歓が静かによみがえります。

⑤西田當百の碑(法善寺横丁)

 大阪川柳をご存知でしょうか?今日の駄洒落にようなものではなく、情景が思い浮かぶような、文学としての川柳をめざす人々が川柳誌『番傘』を創刊しミナミで活動していました。

 西田當百(にしだ・とうひゃく)はその一人で、碑に刻まれているのは「上かん屋 へいゝゝと さからはず」。店主と客の様子を軽妙に表現した作品で、『番傘』創刊号の巻頭を飾った句です。

 法善寺横丁に残るこの碑は、芝居・飲食・文芸が交差したミナミで、川柳という庶民文芸が花開いたことを伝えています。

 法善寺横丁から戎橋筋商店街にもどって北上、道頓堀に向かいます。

名所・戎橋にある2つのレリーフ

⑥ 戎橋欄干の大阪川柳レリーフ

 400年の歴史をもつ戎橋は2007年に架け替え工事が完成、橋の上からはグリコサインに目を奪われがちですが、欄干には“心に響く大阪の川柳”が刻まれています。欄干に設置されたレリーフの、1枚には大阪川柳が三句、もう一枚には小出楢重のイラストと川柳が刻まれています。

 その中の一句、「友達は よいものと知る 戎橋」――作者は大阪を代表する川柳作家・岸本水府によるものです。人が集い、語り合い、友情を確かめ合う“ミナミの社交場”としての戎橋を描いています。

 水府は、人情とことばが息づく大阪の姿を川柳で表しました。一方、広告人としてグリコ宣伝部に所属し、「一粒300メートル」の名コピーを世に出し、またOSK日本歌劇団の「桜咲く国」の歌詞も手がけました。残りの句も情景が浮かぶ秀句。ぜひ、レリーフをみつけて詠んでください。

⑦ 道頓堀人情歌碑

 戎橋の南西詰、階段を下りてとんぼりリバーウォークへ向かうと、道頓堀の夜景に寄り添うように一基の歌碑があります。刻まれているのは、浪花の人情を歌い上げた名曲『道頓堀人情』です。

 この歌は作詞・若山かほる、作曲・山田年秋による作品で、天童よしみの代表曲として広く親しまれています。もともとは昭和59年(1984)に発表され、昭和60年(1985)の天童版によって全国的な人気を得ました。

 歌碑は、道頓堀の魅力を後世へ伝えようと、平成29年(2017)5月20日に建立されたものです。「負けたらあかん」「冷めとない やさしい街や道頓堀は」――歌に描かれるのは、華やかなネオンの裏側にある大阪の人情です。

 芝居町として栄え、多くの旅人や芸人を迎えてきた道頓堀には、笑いと涙が入り混じる独特の情緒がありました。夜の川面を映すこの歌碑の前に立てば、道頓堀が単なる観光地ではなく、人々の人生を受け止めてきた街であることに気づかされます。

 では、階段をあがって道頓堀商店街を東に進みます。ここには、道頓堀の発祥や芝居街にちなむ碑を訪ね歩きます。

⑧ 竹本座跡の碑

 旧浪花座の敷地の片隅に碑が設けられています。「文楽のルーツ」竹本座跡です。竹本座は元禄16年(1703)、義太夫節の創始者・竹本義太夫が道頓堀に開いた人形浄瑠璃の劇場で、近松門左衛門とともに上方文化の黄金期を築きました。『曽根崎心中』や『国性爺合戦』など数々の名作が上演され、江戸時代の人々を熱狂させた舞台でした。

 道頓堀は歌舞伎だけでなく、人形浄瑠璃の都でもあったのです。現在は劇場そのものは残っていませんが、碑は「芝居の街・道頓堀」の原点を静かに語っています。道頓堀が単なる歓楽街ではなく、日本演劇史の中心地だったことを知る手がかりです。

⑨岸本水府句碑(道頓堀今井前)

 竹本座跡を東に進としだれ柳が目印の、うどんの名店「今井」の前に到着します。その店頭にある小さな石碑には、かつて“大阪一の男前”と呼ばれた歌舞伎役者を讃えた句が刻まれています。
 碑を刻んだのは、戎橋で登場した川柳作家・岸本水府。「頬かむりの中に 日本一の顔」という句は、初代中村鴈治郎が『心中天網島』の紙屋治兵衛を演じた際の妖艶な美しさを詠んだ名句として知られています。大正13年に発表された句で、昭和35年、道頓堀今井前に句碑が建立されました。

 江戸時代末期に芝居茶屋として創業した今井の暖簾の前で一句を読んで、美味しい大阪の出汁で舌鼓を打ってください。

⑩相合橋の食満南北の碑

「盛り場を むかしに戻す はしひとつ」――相合橋の北詰の碑に刻まれた一句には、ミナミへの深い愛情がにじんでいます。

 碑の主は上方歌舞伎の脚本家・食満南北(けま・なんぼく)。十一代片岡仁左衛門や初代中村鴈治郎の座付作者として活躍し、芝居・随筆・川柳など幅広い分野で上方文化を支えた人物です。句に詠まれた「橋」は、かつて芝居町へ通う人々で賑わった太左衛門橋を指すとされます。南北自身も橋を渡って芝居へ通ったと伝わり、その記憶が一句に結晶しました。

⑪ 安井道頓の碑

 食満南北の碑から東へ数分、堺筋をわたったところ、道頓堀は誰が造ったのか――その答えを伝えるのが、日本橋近くに立つ安井道頓・道卜の碑です。

 慶長17年(1612)、新しい水路の開削に私財を投じたのが道頓でした。しかし工事の途中で大坂夏の陣が起こり、道頓は戦死。工事は親族の道卜らに引き継がれ、元和元年(1615)に完成します。その功績をたたえ、堀は「道頓堀」と名付けられました。

 現在の碑は大正期に建立されたもので、大阪城築城用の巨石「残念石」が使われています。一度は撤去を余儀なくされた碑を、地元の尽力で残ることとなりました。なお、近年では開削者の名を成安道頓とする説が有力ですが、碑は単なる史実の記録以上に、大阪人が街の発展を支えた先人へ抱いてきた敬意を今に伝える存在となっています。

 さて、いかがでしたか?碑やレリーフに込められた、知られざる物語から、ミナミの魅力を感じていただけたかと思います。心を温かくして、良き店で一杯、お楽しみください。

上燗や、へいへいへいと さかわらず

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次