今や世界に名だたる名所となった「道頓堀川」は、 1615年にできた運河です。そして、道頓堀川の周囲に400年かけてできた繁華街がミナミです。その規模は世界屈指といわれます。
今日はみなさんを大阪ミナミ400年歴史旅にお連れします。まずは、ミナミ誕生から幕末までの物語。
成安道頓が造った道頓堀川
太閤さんの時代、大坂のにぎわいの中心は上町台地のごく限られた場所でした。大阪城の城下に整備された町・船場(せんば)の南側には、まだ田畑がひろがっていました。
1612 年、大坂の商人成安道頓(なりやすどうとん)、安井九兵衛、平野藤次、安井治兵衛の4名は、大坂城の外堀・ 東横堀川と西の木津川を結ぶ運河を掘り始めます。ところが、途中で大坂の陣が起こり、工事は中止。道頓は豊臣方について籠城の末、戦死してしまいます。
大坂城主に就いた徳川家康の外孫・松平忠明は、1615年、大坂の陣で徳川方についた平野藤次、安井九兵衛に工事の再開を命じ、ほどなく完成。大坂の南にある堀ということで、初めは「南堀」と呼ばれていましたが、道頓の功績をたたえて「道頓堀」と呼ぶことになりました。
ところで、いつ頃から「ミナミ」と呼ばれるようになったんでしょう。江戸時代から、という説もあります。船場の南の方だったため「南地(なんち)」と書き、「ミナミ」とルビをふったらしいです。

近松門左衛門もミナミで活躍
川を掘ることは今でいえば道路を造るのと同じ。道頓堀川の両側ではさっそく開発が進められ、8つの町ができました。川の南側は、アメリカで言うとブロードウェイのような一大芝居町として発展しました。最盛期には幕府から営業が許された印である「櫓 (やぐら)」を正面に掲げた、大きな座(劇場) が5つ並んでいました。
そのひとつ「竹本座(後の浪花座、現在は碑が立つ)」は、1684年に竹本義太夫が旗揚げし、売れっ子劇作家「近松門左衛門」を迎え人形芝居を演じました。近松は、1703年に名作『曽根崎心中』を上演、実際に起きた心中事件を扱ったこの作品は空前の大ヒットとなり、歌舞伎でも上演されるようになりました。大阪の人形浄瑠璃が道頓堀で花開きました。

あの舞台装置もミナミで発明
「角の芝居(後の角座)」では、芝居をより楽しんでもらうために、場面転換などに使う「回り舞台」や「せり」を歌舞伎の狂言作者の初代・並木正三(なみきしょうざ)が生み出し、現在も世界中の舞台で使われています。角の芝居を立ち上げた大坂太左衛門の名前は、今も道頓堀川に架かる橋の名として残っています。
江戸時代の観光ガイドブックに芝居街道頓堀が紹介されており、幕末の頃に蘭学者・シーボルトが九州から訪れてこちらで観劇しています。これらの劇場は今は閉館してしまいましたが、エンターテイメントのまちミナミのDNAは現在に受け継がれています。

1923年(大正 1年)に関西初の洋式劇場として誕生した「大阪松竹座」は外観を残して建替えて歌舞伎などの芝居が上演されています。「なんばグランド花月」は吉本興業創業百周年を機に改装(2012年)、 「よしもと漫才劇場」「NMB48劇場」「Zepp Namba OSAKA」など、たくさんの劇場が芸能のまちミナミを支えています。
宗右衛門町をはじめ花街の発展
芝居街の周辺には、遊びのまち・花街(かがい) が発展します。川の北側には宗右衛門町(そうえもんちょう)が、 南側には九郎衛門町(くろうえもんちょう)と櫓町(やぐらまち)が、さらにその南側には坂町(さかまち)、難波新地(なんばしんち)が開発されました。

花街が最盛期だった昭和初めにはミナミに芸妓2800名程が在籍していましたから、京都・祇園をしのぐ華やぎであったでしょう。宗右衛門町は中でも格式が高く、お茶屋から後に高級料亭となった「大和屋」では、下足番が立ち、能舞台が置かれました。
お茶屋や料亭からの厳しい注文によって鍛えられた菓匠「福壽堂秀信」の上生菓子の繊細で華やかな様に、当時のお茶屋文化の粋(すい)と伝統を感じることができます。

グルメな法善寺横丁はお寺の中?
芝居街の南側には、1637年に法善寺が移転してきました。隣の竹林寺とともに千日詣に参る人でにぎわい、付近は「千日前」と呼ばれるようになりました。境内の露店が戦前にはお店として定着していきます。戦後はお不動さんと金毘羅さんが再建され、水掛不動をお参りする人足は今も絶えません。
作家の織田作之助(おださくのすけ)は大衆的で美味しいお店をこよなく愛し小説『夫婦善哉』に描きます。ほぼ同時に作家の長谷川幸延(はせがわこうえん)が「法善寺横町」を発表して、昭和の初めにその名は全国区へ。料理人の憧れの場所となり、浪花割烹を味わえるお店やミシュランで星を獲得したお店も並ぶ、大阪、いや日本を代表するグルメ街となりました。
2002年に火災に遭いましたが、 なにわ情緒たっぷりの法善寺横丁を愛する大阪人の応援で見事昔ながらに復興できました。

「心ブラ」で一世を風靡した心斎橋筋
道頓堀川が完成した翌年からは「長堀川」 (現長堀通り)の開削工事が始まり1622年に完成、あわせて心斎橋も架けられました。この事業を幕府から命ぜられたのが、心斎橋の名前の由来にもなった岡田新三(のちの美濃屋心斎)。道頓堀川と長堀川の間の市街化が進み、島之内と呼ばれ、心斎橋筋もにぎわいます。
大丸百貨店の前身である呉服店「松屋」は1726年に心斎橋筋に出店します。「大塩平八郎の乱」が起きた時、「大丸は義商なり、犯すなかれ」と命じたため、焼き打ちを免れたという逸話が残っています。
明治時代に入って文明開化とともに「東の銀座、西の心斎橋」といわれ「心ブラ」という言葉が流行します。初代大阪市長を務めた田村太兵衛は、心斎橋筋で呉服店「丸亀屋」を営む商人でしたが、店をたかしまや飯田新七呉服店(現髙島屋・当時は心斎橋筋で営業)に売却して市長選に立候補、住友吉左衛門を抑えて当選を果たしました。
長堀川は1964年(昭和39年)に埋め立てられ、地下にはクリスタ長堀ができました。石造の心斎橋の一部は現地で復元されています。

映画興行発祥の地と戎橋筋
道頓堀川が完成して間もなく「戎橋(えびすばし)」が架かりました。船場の商人はこぞってこの橋を渡り戎橋筋を通って今宮戎神社の十日戎にお参りしました。この道沿いに開発された街が難波新地です。
見世物小屋や勧進相撲を誘致したり、夕涼みの名所として衆目を集めながら、幕末にかけて現在の南海難波駅手前までが徐々に市街化されていきました。その難波新地の目ぬき通りとして発展したのが戎橋筋商店街(えびすばしすじしょうてんがい)です。
1885年(明治15年)には難波駅(現南海なんば駅)が誕生し、鉄道ターミナル時代幕開けとなりました。松本重太郎、藤田伝三郎といった財界人らが資本を集め立ち上げた大阪堺間鉄道会社(現南海電気鉄道株式会社)は日本初の純民間資本による鉄道会社です。難波~大和川間が結ばれ、やがて大阪南部へと鉄路は伸び、1994年に開港した関西空港や和歌山と難波を結びます。
日本で初めての映画興行も難波で行われました。難波駅の向かいにあった「南地演舞場」で 1897年(明治30年)、大阪の実業家・稲畑勝太郎がフランスから持ち帰った映写機を使って映写しました。
演舞場の跡地に「南街会館」を建てた阪急東宝グループの創業者・小林一三氏がその史実をしたためた銘板が、現TOHOシネマズなんば1階に掲示されています。
その後、 映画興行はミナミの娯楽の王者となり、千日前には数多くの映画館が建ち並びました。大阪初の映画製作会社「三友倶楽部」も千日前で誕生しています。
食い倒れの街を支える二つの商店街

幕末から明治にかけて、食い倒れの街を支える商店街が生まれます。
「黒門市場」が生まれたのは江戸時代末頃。堺筋に「圓明寺」というお寺があり黒い山門あたりで、堺から来た魚売りの商人が集まって商売していたことが起源とされています。
鮮魚を中心に食い倒れの街・大阪を支える専門小売・卸売市場に発展、食通の胃袋を満たすだけでなく、外国人の人気観光スポットとしても注目を集めています。

一方「千日前道具屋筋商店街」です。明治の初め、 四天王寺のお大師さんや今宮戎神社に参る道筋に古道具屋や雑貨商が軒を連ねたのが始まりです。
昭和の初めには、飲食店開業に必要なものは何でもそろう専門店街へと変化していきます。今では、主婦や旅行者も料理人が使う道具や食器を気軽に購入できるスポットとしてにぎわっています。
近年は、道具屋筋の周辺地域に自然発生的に個性派飲食店が集まり出し「ウラなんば」と呼ばれ、新たなグルメスポットとなっています。

(後編に続く)

関連記事
・浄土宗・天龍山・法善寺のご利益は?大阪人も意外と知らない!法善寺の魅力を徹底取材
・映画発祥の地で最新型シアターが楽しめる!TOHOシネマズなんば
・【2025年度版】大阪の「ミナミ」ってどこにあるの?素朴な疑問を徹底解説!
大阪なんばの最新情報やお役立ち&おすすめ情報をお届けします。