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映画『天外者』のモデルとしても再注目。「大阪の恩人」五代友厚の足跡をたどる

2020年7月に急逝した俳優 三浦春馬さん主演映画 『天外者(てんがらもん)』 が、2020年12月に公開となりました。(TOHOシネマズなんば別館ほか上映)
主人公のモデルである五代友厚(ごだいともあつ)は、薩摩藩士から明治政府の役人を経て実業家となり、大阪商工会議所、大阪取引所、大阪市立大学といった多くの組織と企業の設立に尽力し、今日に続く商都大阪の基礎を作り上げた「大阪の恩人」といわれています。

新一万円札に描かれる渋沢栄一と並び「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と称される功績を挙げながらも長らく歴史に埋もれていましたが、2015年のNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でディーン・フジオカさんが五代友厚を演じたことをきっかけに注目を集め、今回の映画『天外者』では、三浦春馬さんが熱演。国のため、人々のために尽くした五代友厚の熱い想いと志が描かれています。

この記事では、いま再注目される五代友厚について、歴史や人物像をはじめ、多大な功績やゆかりの地をご紹介しています。歴史好きな方、映画『天外者』をこれから鑑賞される方、すでに鑑賞した方も、この記事を読むとより理解が深まりますので、ぜひ最後までご覧ください。

目次

五代友厚の生涯を描いた映画『天外者(てんがらもん)』

天外者ポスタービジュアル

近代日本経済の基礎を構築し、稀代の天外者(=てんがらもん/鹿児島の方言で”すさまじい才能の持ち主”)と呼ばれた五代友厚の生涯を描いた本作。
五代友厚の「想い」と「志」を次の世代に継承するために、製作総指揮の廣田稔氏をはじめ、市民有志が立ち上げた「五代友厚プロジェクト」の尽力により、企画がスタートした2013年からおよそ7年の歳月を経て公開となりました。
五代友厚プロジェクト 公式サイト

あらすじ

三浦春馬が主演を務め、近代日本経済の基礎を構築し希代の“天外者(てんがらもん)=すさまじい才能の持ち主”と称された偉人・五代友厚の人生を描いた歴史群像劇。

江戸末期、ペリー来航に震撼した日本の片隅で、新しい時代の到来を敏感に察知した若き二人の青年武士が全速力で駆け抜ける――

五代才助(後の友厚、三浦春馬)と坂本龍馬(三浦翔平)。二人はなぜか、大勢の侍に命を狙われている。日本の未来を遠くまで見据える二人の人生が、この瞬間、重なり始める。攘夷か、開国かー。五代は激しい内輪揉めには目もくれず、世界に目を向けていた。そんな折、遊女のはる(森川葵)と出会い「自由な夢を見たい」という想いに駆られ、誰もが夢見ることのできる国をつくるため坂本龍馬、岩崎弥太郎(西川貴教)、伊藤博文(森永悠希)らと志を共にするのであった。

引用:映画『天外者』公式サイト

映画のモデルになった五代友厚とは?

五代友厚

出典:五代友厚伝 
白黒、11.0×14.2 cm
国立国会図書館蔵

映画化やドラマでの役どころなど、その功績が改めて再注目される「大阪の恩人」五代友厚とはいったいどんな人物なのか。

私たちの身近にその功績は残っていて、今は桜の通り抜けで有名な「造幣局」は、当時「造幣寮」と呼ばれ、日本初の近代的工場で大阪における文明開化の窓口ともなった施設です。五代は、英国商人トーマス・グラバーを通じ、香港で使われないままとなっていた英国の造幣機を購入しています。

大阪商工会議所

現在の大阪商工会議所 外観

このほか、大阪の経済振興のため「大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)」「大阪株式取引所(現在の大阪取引所)」を設立。また、経済都市として発展するには人材育成が重要と考え「大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)」の創立にも携わっています。

薩摩藩士としての活躍

五代友厚(1836~1885年)は、薩摩(現在の鹿児島)藩士の父のもとに生まれ、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育ちます。幼少の頃から優秀で、その才ゆえに藩主より才助の名を賜ったという逸話が残っています。

1857年(安政4)、薩摩藩の伝習生として、幕府の設立した長崎海軍伝習所(海軍士官養成のための教育機関)でオランダ海軍士官より航海、砲術、測量、数学などを学び、はじめて外国の文明や知識にふれると同時に、勝海舟、英国の商人トーマス・グラバーなど、幕末・明治に活躍した人々と藩を超えての交友を得ます。

徳川幕府は、1854年(嘉永7)にアメリカと日米和親条約を締結し、次いで1858年(安政5年)に日米修好通商条約を締結。長く続いた鎖国体制は終わりを迎えます。

1862年(文久2)には中国(清朝)の海外貿易の拠点のひとつだった上海に、貿易視察を目的として開国以来初となる官船を派遣しています。その際、薩摩藩士は乗船を許可されなかったため、五代友厚は水夫に扮して船に乗り込んでいて、同船していた高杉晋作らと交友を結んでいます。

この視察の記録が書かれた高杉晋作の「遊清五録」には、「薩摩藩の五代という人物が水夫に扮して乗船していた。国(薩摩)では『蒸気船』の副司令官を務めていて主君の命を受けて上海にやってきたとのことで、次第に打ち解けて聞いた話では、薩摩に戻ったのち蒸気船修理を名目にして上海にわたり大いに交易をはかるつもりだ」と記されています。

東行先生遺文 – 国立国会図書館デジタルコレクション (220P参照)

上海には、英仏米の租界(※1)があり、ガス灯や電線など、文明の先端をいく西洋の縮図がありました。五代は、西洋の威力を知り、また、国際都市上海での人々との交流を通じ、国際人としての見識を高めたと思われます。この視察で得た知見はのちに日本の未来のために奮闘する生き方に影響を与えたとされています。

(※1)租界
当時の中国(清朝)の開港場(上海など)において、一定の地域を租借(=国家間の土地の貸し借り)した外国が行政・警察権を行使する地域のこと。
本来は単なる土地貸与に過ぎなかったが、列強は次第に領事裁判権を得て、その土地を事実上支配(半植民地化)するようになった。
租界は、第二次世界大戦が終結した1945年中国(中華民国)にすべて返還されている。

五代友厚と薩英戦争

翌年の1863年(文久3)、英国艦隊が薩摩藩に対して「生麦事件(※2)」の下手人の差し出しと、被害者遺族への賠償金を要求するため、横浜から鹿児島へ向かいました。薩英戦争のはじまりです。

(※2)生麦事件
薩摩藩主だった島津茂久の父・久光の大名行列が数百名の藩士達と江戸から薩摩へ帰る途中、神奈川県の生麦村にさしかかったところで、日本の風習や言葉を知らなかったイギリス人4名が久光の行列を乱したとして供侍たちが1人を斬り殺し、2人を負傷させた事件。

このとき長崎にいた五代は、捨て身の覚悟でイギリスの代理公使ニール大佐との直接談判を行い、なんとか戦争を回避しようと長崎で英国の艦隊を待っていましたが、艦隊は長崎に寄らずに鹿児島に直接向かったといいます。

急いで鹿児島に戻った五代は、寺島宗則とともに薩摩藩が所有する蒸気船を船長として率いて開戦に備えました。イギリスと薩摩藩は生麦事件の賠償問題と犯人の逮捕処罰について交渉しているところでしたが、なかなか交渉が進まない状況にしびれを切らしたイギリス側は、宣戦布告前にもかかわらず五代らの乗った船を急襲し捕虜とします。

五代は、捕らえられた際に英国艦隊司令官らに尋問を受けますが、薩摩の戦力を尋ねられた際には「薩摩は古来武勇をもって知られている。陸上十万の精鋭は一人として生を欲するものがいない。とくに陸戦は我が藩の最も得意とするところ。貴国の上陸を決死奮戦の意気込みで待ち構えている」と答えたといいます。英国軍が上陸をせず横浜に引き揚げた裏には、五代の巧みな弁舌があったのかもしれません。

捕虜からの釈放と建言

薩英戦争で捕虜となった五代は、英国提督クーパーのはからいにより横浜で釈放されました。しかし、「捕虜は士道にもとる」と非難されるだけでなく、開国論者として知られていた五代は、英国と通じていたのではないかなどといったあらぬ疑いもかけられます。
身の危険を感じた五代は、幾度かの暗殺の危機にさらされつつも居を移しながら潜伏し、長崎のトーマス・グラバーに匿われます。

その後、誤解が解け帰参を許された五代は、グラバー邸で知った世界情勢を踏まえ、日本が中国(清朝)のようになることなく国を守るには、攘夷ではなく、先進の文明を取り入れ、交易を盛んにして富国強兵をはかるべきと長文の上申書を薩摩藩に提出します。具体的には上海貿易を実施し、この貿易の利益をもって英仏両国に留学生を派遣し、技術者を招くことなどを提案しています。

見聞を広めたヨーロッパ留学

薩摩藩では、これを受けて翌年の1865年(慶応1)には、五代友厚を含めた薩摩藩使節と留学生の総勢19名が英国に派遣されます。海外への留学や旅行が禁止されていた状況下での密航留学でした。

留学生は英国で学び、五代と新納はヨーロッパ各国をめぐり視察をしながら、紡績機械や武器の買い付けなどをしました。滞欧中に「富国強兵一八カ条」を藩主に建言していますが、そのなかに「商社合力=株式会社などのジョイント・ベンチャー」の必要性が力説されています。

当時の日本は、各商家の単独資本で事業経営をするのが普通でした。これに対して、ヨーロッパでは人々が資本・人材を寄せ合って事業を行うことが一般的になりつつありました。五代友厚と同じ頃にヨーロッパへ渡っていた渋沢栄一も、帰国後にこれを「合本主義」(公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方)として唱えています。

この渡欧経験で得た貿易や軍事産業、商法会議所についての知識は、のちに実業家として活躍する際に活かされています。

時代は幕末から明治維新へ

1866年(慶応2)に薩摩藩と長州藩が同盟を組み(薩長同盟)、倒幕運動の動きが強まるなか、1867年(慶応3)に徳川幕府最後の将軍として知られる第15代将軍 徳川慶喜が、政権を朝廷に返す大政奉還を行い、およそ260年続いた徳川幕府は終焉を迎えました。

1868年(明治1)に新政府が樹立。五代友厚は、上海・欧州各国への渡航経験と新知識を認められ、明治政府の役人となり、参与職外国事務掛として神戸事件、堺事件と続く外国人殺傷事件の解決に奔走します。

その外交的手腕は高く評価され、大阪に在勤となり、大阪川口運上所(税関)における一切の事務を管轄。大阪開港規則を定め、波止場を新設し、大阪港の整備を行い外国人居留地の建設を実施します。これが大阪とかかわる第一歩でした。

経済が低迷する大阪の復興に乗り出す

江戸時代「天下の台所」と呼ばれた大阪は、幕末から明治の初めにかけて維新の混乱の最中にありました。

大阪経済で大きなウェイトを占めていた年貢米市場が、諸藩の蔵屋敷や堂島米会所の廃止によって縮小したことや、豪商に幕府や新政府が多額の御用金を賦課(※3)したこと、商人が大名に貸していた巨額の大名貸の多くが返済されなかったこと、貨幣制度が変わり、大阪の慣行であった銀遣いが停止(銀目廃止)(※4)となったこと、江戸時代の大阪の市場秩序を支えてきた株仲間が解散されたこと、京都から東京に遷都がされたことなど、大阪の経済を支えてきた様々なものがなくなり、名だたる豪商も次々と倒産していきました。

(※3)御用金
幕府や諸藩などが財政の不足を補うため、御用商人をはじめとする町人などに割り当てた臨時の負担金。

(※4)銀目廃止
江戸時代の幣制には、金・銀・銭の3貨と礼があって、いずれも独自の体系と地域性をもって流通していた。金貨は金目と呼ばれて江戸を中心に計数によって使用され、銀貨は銀目と呼ばれて大阪を中心にはかりにかけた重さで使用されていた。銀目廃止は、明治政府が幣制の統一、不合理除去のためにとった政策のひとつ。

大阪商人たちはこれから進むべき道を見出せず、今までの商売のあり方をただ守り、大阪経済は大きく落ち込んでいました。
そのようななかにあって、商人達にこれから進むべき道を指し示したのが五代友厚です。

新たな事業に積極的に挑戦し、海外との交易を盛んにしていくことが、日本の発展へとつながると考えた五代は、多くの豪商にこれから進むべき道を指し示していきます。
多くの商人、部下から信頼され、大阪から横浜への転勤が命じられた際には、「いま五代さんが大阪からいなくなると困る」と多くの人が五代を引き留めました。

五代は大久保利通に「政府には優秀な人材がそろっているが、民間にはいない。自ら大阪へ行って一般の商工業の発展に努める」と述べたといいます。
1869年(明治2)に役人を退いて、大阪に戻った五代は、様々な質の貨幣を分析し、地金を取りだし造幣寮におさめる金銀分析所で最初の成功をおさめます。次に鉱山経営を始め、全国に26の鉱山を所有し、またたく間に鉱山王となります。

これらの事業は五代一人の力ではなく、資本を持つ人、経営能力のある人、知識や技術を持つ人など様々な人を集め共同で事業を実施していきました。五代はビジネスリーダーであり、指導者であり、新しいビジネスモデルを持ち込んだイノベーターでした。

文化庁 文化遺産オンライン(旧造幣寮)

オーガナイザーとしての五代友厚と南海電鉄の前身「阪堺鉄道」

大阪 南海なんば駅前

南海なんば駅前

先に触れた通り、江戸時代の事業のやり方はそれぞれ家のビジネス。例えば、住友は住友家だけ、鴻池は鴻池の資本や人材だけで事業を展開していました。しかし、近代化を進める明治の時代に紡績など大きな事業をやるには大きな資本、様々な能力をもった人材が必要になってきます。

五代は渡欧した際に、株式会社(五代は当時手記に商社合力と記している)がこれからの時代には必要だと考えていました。その類まれな人望と知見をもって、資金と人材を集め、ビジネスの基盤となる様々な組織をつくり、多くの事業に携わり、助言をし、大阪の指導者として活躍しました。

五代の住居や事業拠点の多くは、中之島界隈で、なんばの街とはあまり関係がありませんが、例えば、1884年(明治17)、当時大阪財界の重鎮だった藤田傳三郎、松本重太郎ら19人が発起人となって大阪堺間鉄道として敷設認可を受け、日本で初となる純民間資本による「阪堺鉄道(現在の南海電鉄)」の設立にも関与したといわれています。

五代は阪堺鉄道の設立の発起人には名前を連ねてはいません。しかし、阪堺鉄道の創設者のひとりである藤田傳三郎は五代と親交が深かったことや、薩摩藩が堺で営んでいた紡績工場にも五代が関与していたこと、明治の初めに計画された大阪と堺を結ぶ鉄道計画に関する資料が五代の残した文書に残っていることなどから、関与していたことは十分に考えられます。

日本鉄道史.上篇/国立国会図書館デジタルコレクション
南海電鉄の歴史/南海電鉄公式ホームページ

なぜ知名度が低いのか?

「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と称されながらも、なぜ知名度が低いのでしょうか。

その理由について、病気のため49歳と早くに亡くなったことや、明治以降の大阪を振り返った際に、必ず名前が挙げられる偉人ではあるものの、「三菱の原点」である岩崎弥太郎(1835~1885)のように、今に残る財閥を形成していないため一般の方になじみがないことがいわれています。
しかし、昨今ドラマや映画など作品を通して五代が残した功績を知り、実現に至った歴史的背景や日本のために奮闘する姿に胸を打たれる人も少なくありません。

五代友厚の銅像

大阪商工会議所前(堺筋本町)

五代友厚 銅像

大阪商工会議所前には、会頭を務めた3人の銅像が建っています。
初代会頭を務めた五代友厚の像は、第二次世界大戦中の戦略物資が不足した際に金属供出のため軍に回収され、こちらは2代目なのだそうです。

大阪取引所前(北浜)

五代友厚 銅像

大阪取引所前に建っている五代友厚公像は、2004年12月に新ビル完成時に、除幕されたもの。彫刻家・中村晋也氏作で、高さは7.6メートル。中之島公園の遊歩道からも見ることができるシンボリックな銅像です。

大阪企業家ミュージアム

大阪起業家ミュージアム

五代友厚についてさらに詳しく知りたい方へ、Osaka Metro堺筋線の堺筋本町駅から歩いて約5分とほど近い場所にある「大阪企業家ミュージアム」の常設展示で紹介されています。
また、こちらでは五代家の子孫の方が保存していた書簡や文書、約6000点をパソコンで閲覧することができます。(五代友厚関係文書の閲覧には事前の連絡が必要です)

五代をはじめとする大阪を舞台に活躍した企業家105人の足跡に触れることができます。ぜひ立ち寄ってみてください。

施設情報
施設名/大阪企業家ミュージアム
住所/大阪市中央区本町1-4-5 大阪産業創造館B1
開館時間
火・木・金・土曜日/10:00~17:00(入館は16:30まで)
水曜日 10:00~20:00(入館は19:30まで)
※新型コロナウイルス感染予防・拡大防止の観点から、現在、水曜日の延長開館(20時まで)は行っていません。
電話番号/06-4964-7601
入館料/大人300円、中高大学生100円
大阪企業家ミュージアム 公式ホームページ

映画『天外者』上映館情報

なんばエリアでは、TOHOシネマズなんば別館で映画「天外者」上映されています。

営業時間:期間によって異なりますので詳細はHPにてご確認ください
TOHOシネマズなんば公式ホームページ

住所/本館:大阪市中央区難波3-8-9
別館:大阪市中央区千日前2-11-5 敷島ビル4階
電話番号/050-6868-5043(本館・別館共通)
駐車場/専用駐車場および提携駐車場はありません

お得な割引サービスや各なんば駅からの詳しいアクセス情報はこちらご覧ください。

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まとめ

渋沢栄一とならび日本の近代経済発展に尽力した五代友厚。まだまだ知名度は低いものの、2021年には大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として注目を集める「日本資本主義の父」渋沢栄一の盟友として登場し、「あさが来た」で五代友厚役をつとめた俳優のディーン・フジオカさんが再び演じるなど、さまざまな作品を通してその功績に再注目が集まっています。

現在公開中の映画『天外者』では、その熱い志と日本をより良くしようという想いが鮮明に描かれています。歴史好きな方、映画『天外者』をこれから鑑賞される方、すでに鑑賞した方も、この記事でより作品に親しんでいただき、五代友厚という人物に想いを馳せてみてください。

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