大阪・なんばの観光スポットで有名な法善寺(ほうぜんじ)の境内には長さ80m、幅3mの2本の路地が東西に伸びています。
この路地の両側には老舗の割烹やバー、お好み焼き・串カツ店などがずらりと並んでおり「法善寺横丁」という名称で親しまれています。

今回は、風情溢れる「法善寺横丁」の現在に至るまでの歴史をメインにご紹介します。
法善寺会と呼ばれる、横丁の関係者らで構成される会の会長をしている喝鈍(かつどん)の初代店主渡邊さんに、法善寺横丁の歴史を詳しく聞かせていただき貴重な資料もお借りしました。
法善寺横丁の歴史に興味がある方はもちろん、あまり詳しく知らない方でも、この記事を読むと法善寺横丁にぶらりと散歩しに行きたくなりますので、ぜひ最後までご覧ください。

法善寺横丁ってどういう場所?

法善寺横丁 歴史

法善寺横丁は大阪の人々に愛された飲食店街で、地元の方や観光に来られた方はもちろん、芸能人も利用するスポットとしても有名です。
東西に伸びた2本の路地には、老舗割烹や小料理屋、バー、B級グルメなど50あまりの店が軒を並べています。
カウンター席の小さなお店も多いですが、ここで自分の店を持ちたいと、力のある料理人が集まり、なかにはミシュランガイドに掲載されるお店もあります。

「価格が高いイメージがあるので入りにくい…」と、思われる方もいるようですが、横丁内には1000円未満で食事が楽しめるお店もあります。
もちろん、老舗割烹や高級料理店などのお店もありますので、大阪に来られた方との食事や記念日といった特別なシーンに法善寺横丁のお店を利用される方も多く、「法善寺横丁のお店なら間違いない」という、食にこだわりを持つ大阪の方からも厚い信頼が寄せられているエリアです

法善寺について

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法善寺は浄土宗の寺院で、江戸時代初期の寛永14年(1637年)からミナミの地にあります。
もとは境内に六堂伽藍(ろくどうがらん)と呼ばれる建物がありましたが、太平洋戦争で焼失してしまい水掛不動尊(みずかけふどうそん)と金毘羅(こんぴら)大神、お初大神だけが残りました。

水掛不動尊は念ずることでご利益を与えてくださり、どんな願いごとでも手助けをしてくださると信じられています。人々はお不動さんに水を掛け、手を合わせて願いごとをします。
夕方頃には周辺にお店を持つ商売の無事を祈る商人の姿を目にすることもあり、長年地元の人々から愛されてきたのがわかる寺院です。
また、朝の仕事前に立ち寄れたり、法善寺横丁内で食事をされた方が夜中に参拝できたりと、24時間いつでも参拝できる珍しい場所でもあります。

法善寺には水掛不動尊以外にも4つの諸堂があります。
各諸堂のお参り方法やご利益、また法善寺の歴史まで詳しく紹介している記事がありますので、ぜひこちらも参考にしてくださいね。
あわせて読みたい:浄土宗・天龍山・法善寺のご利益は?大阪人も意外と知らない!法善寺の魅力を徹底取材

法善寺横丁の歴史

法善寺横丁のはじまり

法善寺横丁 歴史

店がつくる界隈 -法善寺横丁の研究-より(資料提供:法善寺会 渡邊会長)

法善寺横丁の歴史は江戸時代までさかのぼります。この時代は法善寺の境内に寄席が2軒あっただけといわれています。

法善寺の境内が栄えてきたのは、明治の終わりから大正・昭和にかけてです。
当時のなんば・道頓堀(どうとんぼり)は、歌舞伎や人形劇などの文楽が盛んで船場の旦那衆の娯楽の場所、商談や社交の場所として栄えていました。

なんば・道頓堀に向かう途中で法善寺に参拝に来る人や芝居小屋に向かう芸能の人を対象に、また芝居小屋へ向かう旦那衆を乗せた車引きの休憩所として、茶店や屋台、露店といった価格の安いお店が集まりだしたのが横丁の始まりだそうです。
当時は、まだはっきりとした名称はなく「法善寺裏」「法善寺路地」と呼ばれていました。

時代は流れ、「法善寺横丁」という名を全国に知らしめたのは、大正時代を生きた文豪たちがきっかけだそうです。
織田作之助の代表作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」や長谷川幸延(こうえん)の代表作「法善寺横町(当時は横町と呼んでいた)」。また、芝居や映画・歌謡曲などに次々と紹介され「法善寺」「法善寺横丁」の名前は広く日本中に知られることになりました。

その後、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)に起こった大阪大空襲で、水掛不動尊以外全て焼けた法善寺周辺の復興と共に、現在もあるお店が集まってきたそうです。
こうした歴史を経て、今の法善寺横丁の原型ができてきました。

風情溢れる石畳の秘話

法善寺横丁 歴史

時は進み昭和55年(1982年)に、古くなった排水本管の工事によって横丁内の路地が壊される時に、元々アスファルト舗装だった路地を「石畳にしよう」という案がでました。
この時に提案してくれたのが、法善寺横丁内のお店を良く利用していた、当時南海電鉄(南海電車)に務めていた方々です。
南海電鉄の協力のもと、阪堺(はんかい)電車の路面の敷石に使っていた石を譲り受けて石畳にしました。
こうして、現在の風情ある法善寺横丁の雰囲気を生み出す石畳は完成しました。

この石畳が完成した8月10日・11日を記念日として現在も毎年「法善寺横丁まつり」が開催されています。(令和2年(2020年)は感染症対策のために開催していません。)
このお祭りは法善寺の境内が会場で、法善寺横丁に所縁(ゆかり)のある芸能の方が落語・演芸を披露します。
また、法善寺横丁の名店がそろい、手作りの屋台で、お祭り限定の料理を提供するなど、お祭りを通じて法善寺横丁の魅力に触れ合えるイベントです。

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喝鈍(かつどん) 初代店主 渡邊さん

「当初は、芝居小屋の歌舞伎役者が実際使っていた衣装を借りて、仮装をしながら屋台を出した時もありました。そういう和気あいあいとしたお祭りで、横丁内のお店同士や、街の人との関わりができたきっかけのお祭りでもありますね」と、面白いエピソードや貴重なお話まで、渡邊さんが教えてくれました。

法善寺横丁のお祭りに興味のある方は、ぜひこちらをチェックしてくださいね。
いっとこミナミ公式サイト

想いが受け継がれる看板

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西側:藤山寛美

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東側:桂春団治

昭和60年(1985年)には、古くなった電気設備を新しく工事するにあたり、当時あった看板を壊して外さないといけない状況になった時に、街の方の寄付と関西電力の協力のもと新しい看板づくりをすることになりました。

横丁内の店主たちが集まり「誰に看板を書いてもらおうか?」と相談した結果、その当時中座(当時の芝居小屋のひとつ)の舞台に立っていた芸能・文化人たちが、法善寺横丁の常連だった縁から、人気喜劇役者の藤山寛美(かんび)師匠に中座の入り口がある方角の西側の看板の字を書いてもらうことに決まりました。
東側の看板はというと、今も横丁にあるバー「洋酒の店 路(みち)」の常連だった落語家の3代目桂春団治(はるだんじ)師匠にお願いしたそうです。
おふたりとも快く看板づくりに協力してくださり、今の「法善寺横丁」の看板が完成しました。

この「法善寺横丁」の文字は看板に合わせて拡大コピーしたものでなく、原寸大で書いてもらったとのこと。
また、藤山寛美師匠が書いた「法善寺横丁」の「善」の字をよく見てみると、一画抜けています。
こちらは書き間違えということではなく、「私は一本抜けた人間やから」と言ったというエピソードが残っています。

看板ができてから35年が経っており、今日に至るまで2度の火災がありましたが、今も当時のまま壊れることなく残っています。
横丁内の各お店の想い、街の人の想い、またおふたりの役者の想いの強さが感じられますね。

法善寺横丁火災の復興・再生物語

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平成14年(2002)年9月と翌15年(2003年)4月に発生した法善寺横丁の火災の時には、法善寺全体や周辺のお店にも大きな被害を与えました。

焼失したお店を元通りにできるのか、また横丁の顔である路地を守ることができるのかが難しい問題だったそうです。
現在の建築基準法では、店を建て直すために現状2.7mの路地幅を4m以上に広げなければならず、風情ある横丁の街並みの再建が危ぶまれました。

しかし、2度目の火災の火元となった店主から「自分のところの借地の権利を売るので、それで各店舗の間口を広げて再建してください。買っていただいた権利金は被災された方々にお詫びの気持ちで納めます」という申し出があり、再建が大きく前進したそうです。
4店舗でその間口を当分に振り割り、1m程度残った空間は路地とくっつけて少しでも空間をつくるように再建し、法善寺横丁の横幅2.7mという路幅を守り、石畳も復興しました。

大阪市の協力のもと、また約30万人以上の署名の数の人々の「このままの風情を守りたい」という想いのおかげで、以前と変わらない景観と活気が戻りました。

最初の火災から2年後の平成16年(2004年)9月9日には、法善寺の北側の路地に「慈悲地蔵尊(じひじぞうそん)」が建てられました。
法善寺横丁の復興の際に寄せられた、多くの“慈悲”に対する感謝が詰まっているお地蔵さまです。

現在ある「法善寺横丁」は、横丁内の各お店をはじめ、横丁を愛する街の人々のおかげでできた、人情溢れる力強い街です。

法善寺横丁をぶらり散歩

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月の法善寺横町  藤山桓夫(たけお)

藤山寛美師匠が書いた西側の看板から入り、少し進むと右手に藤山桓夫(たけお)の「月の法善寺横町」の石碑があります。
昭和35年(1960年)に発売され、藤山桓夫の関西弁とソフトな歌と語りが人気を生みました。

若くして法善寺横丁の老舗の料理屋に入った若者が、そこの娘と恋仲になるが、親方に認められるには、もっと腕を磨かなくては…と、恋仲の娘をおいて修行の旅に出るお話です。
職人の厳しさと共に、男女の切ない恋物語を感じることができます。

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文学碑 織田作之助

月の法善寺横丁の石碑の向かい、正弁丹吾亭(しょうべんたんごてい)の入り口の隣には織田作之助の文学碑が残っています。

「行き暮れて ここが思想の 善哉かな」と書いてあり、名作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」の川柳が残されています。
一句の意味は「お互い好き合うた仲やないの。どこまでも一緒です」と、解釈されている方もいるそうで、たくさん苦労しながらでも夫婦の仲の良さが伝わってきます。

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法善寺・水掛不動尊の隣には、織田作之助の小説の舞台になった「夫婦善哉」があります。
店内には、織田作之助ファンの方はもちろん、法善寺横丁の歴史を感じることができる展示物が壁一面に飾られています。

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夫婦善哉

また、夫婦善哉の作中で出てきた、ふたつのお椀ででてくる善哉も楽しむことができますので、ぜひ1度足を運んでみてはいかがでしょうか。

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水掛不動尊の向かいには、ふぐ料理が堪能できる創業約80年になる老舗「浅草」のショーケースがあります。
このショーケースには法善寺横丁の歴史を知っていただこうと、浅草の4代目店主辻さんと産経新聞社の協力のもと、横丁の歴史を感じることができる写真や情報を定期的に展示してくれています。

法善寺横丁内には、風情を感じる石畳や石碑はもちろんですが、各お店の「横丁を守る」という強い想いも感じることができますので、ぜひぶらり散歩を楽しんでみてくださいね。

アクセス

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1、各なんば駅下車後、なんばウォークB12出口からでます。

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2、すぐ左手に戎橋筋商店街アーケードがありますので、中に入ります。

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3、1分ほど歩くと右手に「おお蔵 なんば戎橋店」が見えてきますので、右に曲がります。

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4、法善寺こいさん通りを真っ直ぐいくと突き当たりに「法善寺横丁」の看板が見えてきます。

まとめ

今回は、大阪の人情あふれる「法善寺横丁」の歴史をメインに紹介しました。
横丁の風情溢れる街並みには、大阪市の協力や横丁内の各お店、周辺地域の街の人々の「このままの風情を守り続けたい」という力強い想いが刻まれています。

ぶらりと散歩を楽しむのもよし、歴史を感じに来るのもよし、織田作之助を見に来るのもよし。
大阪・なんば周辺に来られた方は、法善寺横丁の街並みや歴史を感じに、ぜひ足を運んでゆっくりした時間を味わってくださいね。