大阪・なんば周辺で息づく大正~昭和の〈近代建築〉を訪ねて

近代建築 アイキャッチ

大阪の近代建築は、大阪市内の中之島から船場周辺で多くみられますが、本記事では中央区のなんば周辺で保存・再生されている近代建築を紹介しています。

大阪大空襲でミナミも焼け野原になりましたが、戦前の幾つかの建物は奇跡的に消失を免れ、リノベーションを重ねて繁華街・ミナミならではの活用がされています。

国の重要文化財に登録された旧松坂屋大阪店(高島屋東別館)や登録文化財に指定されている南海ビルといった当時の先進の百貨店やターミナルビル建築、ヴォ―リス建築の系譜を継ぐ大正時代の教会、外観を保存して劇場部分を改築した大阪松竹座について、建築的な特徴と経緯、現在どのように活用されているか詳しく紹介しています。

また、解体された昭和初期の小学校の景観を新しい建物の意匠に活かした事例や、御堂筋の道頓堀川に架かる道頓堀橋も近代土木構築物として紹介しています。

今回の記事は戎橋筋商店街の事務局長で、大阪府立大学観光産業戦略研究所研究員の山本が担当し、建物とあわせてミナミのまちを回遊していただけるようおススメコースも企画しましたので、最後までご覧ください。

目次

国の重要文化財に指定された【旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)】

旧松坂屋大阪店は1937(昭和12)年にほぼ現在の形になり、1966(昭和41)年に松坂屋が天満橋に移転した後は、1968(昭和43)年から髙島屋東別館となりました。

2020(令和2)年にリノベーション工事が完成し、サービスレジデンス(滞在型ホテル)、フードコート、髙島屋史料館などとして利用されています。

戦前の大規模な百貨店建築がほぼ原形をとどめて残り、当時の近世復興様式やアールデコ調のデザイン、災害や空調に対応した進んだ建築技術を今日に伝えています。

建築史上また近代都市史上の文化財的な価値が認められ、2019(令和1)年に国の有形文化財に登録、2021年8月に国の重要文化財に指定されました。

まずは建物の特徴から紹介します。

建築上の特徴

旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)は大阪市内を南北に縦断する堺筋に面しています。

建物の高さは7階ですが間口は約105メートルに及び、大きなファサード(外観)が特徴です。増築を重ねた3つの建物を一つにまとめ上げたとは、外観だけをみてもわかりませんが、建物の後ろ側(東側)に回るとその様子を伺うことができます。

その長大なファサードは、1~2階、中層階、7階の3層のデザインで構成されています。

近代建築 髙島屋東別館
堺筋からファサードを臨む
近代建築 髙島屋東別館
建物を東側から臨む
近代建築 髙島屋東別館
ファサードは3層で構成される

歩道に面する1階部分はアーケードとなっており、その長さは約67メートルに及びます。床には3色のテラゾー(人造石)がジグザグ模様に貼られ、窓枠にはホワイトブロンズ、柱の一部には黒大理石を用いた魅力的なプロムナード空間を、ショーウインドウを楽しみながら散策できる演出となっていました。

近代建築 髙島屋東別館
アーケード内のプロムナード
近代建築 髙島屋東別館
プロムナードの路面に貼られたテラゾーと装飾

そしてアーケード部分の2階には11連のアーチを設けて、アーチ部分はアカンサスや唐草模様をモチーフにしたテラコッタ(素焼きの焼き物)で装飾し、リズミカルで華やかな景観となっています。

このように、外部からも百貨店内部の華やかさを感じさせるように工夫されています。この歩路をぜひ歩いてみてください。

中層階の窓廻りはシンプルなタイル張りで、7階の柱間は3つのアーチ状の高窓を並べ、その上の平屋根の軒にはテラコッタの装飾が施され、外壁にはアイボリー色のテラコッタが貼られています。

テラコッタは、当時はアメリカから輸入することが多かったのですが、この建物では国産の製品が起用されました。

近代建築 髙島屋東別館
アーケードとプロムナードを堺筋の歩道からみる
近代建築 髙島屋東別館
アーチ(2階)と中高層階を見上げる

エントランスを入ったホール部分では、百貨店時代の華麗な内装を垣間見ることができます。大階段廻りやエレベーターホールには大理石が使用され、金物はホワイトブロンズ、天井や梁には石膏彫刻を貼り付け、床はテラゾーとなっています。

近代建築 髙島屋東別館
玄関を入った階段廻りには大理石が貼られている
近代建築 髙島屋東別館
エレベータードアは当初のホワイトブロンズを復元

これらの内装がすき間から見えるように吊り下げ天井や間接照明が施され、外部から見えない建具も原則としてそのまま保存がなされています。

近代建築 髙島屋東別館
吊り天井のすき間から当初の意匠が見える
近代建築 髙島屋東別館
間接照明を後付けし保存した部分を見せながら明るさを確保

テラコッタ装飾やアーケード歩路、天井・梁やエレベーター廻りの装飾、照明器具、欄間などは「アカンサス」という植物の葉や唐草、渦巻を幾何学模様にデザインしアールデコ風となっています。意匠の担当者がアメリカに出張し現地の百貨店の最新のデザインについて学びとりいれています。以上のように、この建物は近世復興様式(ルネサンス式)を基本にしつつ古典様式の細部は簡素化、洗練され、一方でアールデコデザインを用いモダンさや華やかさが表現されています。

近代建築 髙島屋東別館
エントランス風除室上部の照明の飾り
近代建築 髙島屋東別館
エレベーター廻りの随所に施されたアールデコ装飾

建物の歴史と設計者

現在では、大阪のメインストリートといえば梅田と難波をつなぐ御堂筋ですが当時はまだ拡幅拡張する前で(1937(昭和12)年完成)、堺筋がメインストリートでした。三越(北浜・1915(大正4)年)や白木屋(本町・1921(大正10)年、髙島屋(長堀橋・1922(大正11)年)といった大手百貨店の大阪店は堺筋に建ち並んでいました。

ここに松坂屋大阪店が進出したのは1923(大正12)年のこと。木造3階建ての仮営業所を使いながら、本格的な工事に着手します。仮営業所の南側に1928(昭和3)年、6階建ての建物が建ち、続いて1934年(昭和9)年には北側に7階建ての建物が完成。仮営業所を改築し南北の建物をつないでファサード部分も一体化します。

さらに第4期として東側に増築を進めますが戦時中で資材の供給ができなくなり一部だけで完了します。これらは全体計画のもとに計画的に工事が進められ、松坂屋全体の中でも最大かつ国内最大級の鉄骨鉄筋コンクリート造の百貨店が誕生しました。

関東大震災を経験してから最初の大規模商業施設となり、当時としては最新の防火対策が施されました。消火器や火災報知器はもちろん、吹き抜けを設けず客用階段と売場の間などに防火シャッターを設置し各階ごとに延焼を防止できるようにしています。避難専用の非常階段を2カ所に設置しコンクリートで囲い、屋上を一時避難場所に設定しました。

今は存在しませんが当時は地下1階から5階にエスカレーターが設置されており、二人が並んで乗ることができるタイプは当時日本初でした。

7階には演芸ホールがあり、また中8階には特別室があり一流の講師陣に習うことができる「松坂倶楽部」に使用されていました。北館にあたる場所の屋上には遊園地が設けられ、プールがあって冬季にはスケートリンクとなりました。

全館冷暖房を実施するとともに、本格的な空調システムを採用しています。空気摂取塔と排気塔(煙突)を建物の北東に設置し、とり入れた空気は6台の空気温湿度調整機を通じて館内に送り込み、館内の空気は吸気口から排気管を通じて排気する方法で、館内の温湿度を一定に保ちながら1時間に5~30回の換気回数を確保しています。

近代建築 髙島屋東別館
取り外さざるを得なかった部材は大切に保管されている。
近代建築 髙島屋東別館
髙島屋史料館内では当初の天井や梁型がわかる

髙島屋が取得した後は髙島屋史料館、事務所等に利用し、当時の内装はタイムカプセルのように残されました。

設計を手がけた鈴木禎次(すずきていじ)は、文豪夏目漱石の義弟でもあります。生涯で100棟を超える建築の設計を行いその用途も多様でしたが、とりわけ百貨店を14件設計し「百貨店建築の名手」といわれました。

松坂屋大阪店の設計には相当の時間と人材が投入され集大成と言える作品が作り上げられました。その現存する数少ない建物として旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)は貴重です。

旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)の保存・活用

近代建築 髙島屋東別館
建物の北東に設置された排気塔(煙突)
近代建築 髙島屋東別館
吹き抜けの代わりに中2階を設けている(写真上部:現在は目張りされている)

髙島屋史料館には「髙島屋」創業以来の豊富な資料や美術作品が保存されています。デジタル技術により自由に鑑賞・閲覧できる展示手法を導入するなど、充実した展示内容となっています。館内では建築当初のエレベーターホールもみることができます。ぜひお立ち寄りください。

また、世界的サービスレジデンス「シタディーンなんば大阪」では窓からアーチの形状が見える2階の部屋が人気とのこと。1階にはエンタメと食が楽しめる「コミュニティーフードホール大阪・日本橋」があり、ここでお食事もできます。

近代建築 髙島屋東別館
1階のコミュニティーフードホール大阪・日本橋

各施設の最新の営業状況は下記ホームページでお確かめください。

髙島屋史料館公式HP

シタディーンなんば大阪 公式HP

コミュニティーフードホール大阪・日本橋公式HP

旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)の建築概要

構造階数/鉄骨鉄筋コンクリート造

地上7階一部8階地下3階建

建築面積/4,831.57㎡

延床面積/41,337.68㎡

竣工年/1928(昭和3)年/1934(昭和9)年・1937(昭和12)年増築

所在/大阪府大阪市浪速区日本橋3-5-25

設計/鈴木禎次

施工/竹中工務店

改修年/2020(令和2)年1月

資料;「登録有形文化財 髙島屋東別館 改修工事報告書」(2020年4月 株式会社髙島屋、学校法人工学院大学、株式会社竹中工務店)

なんばのランドマークとして活かされ続ける 【 南海ビル 】

南海ビルは、南海難波駅ターミナルの駅ビルとして昭和7年に建築され、その景観はなんばのランドマークとなっています。

南海電鉄なんば駅は2度の改造を行っていますが、この建物は文化財として保存・再生され、さらに新しい時代にむけて難波駅前の広場化の中でさらに活かされようとしています。

建築上の特徴や歴史とあわせて、どのように活かされようとしているのか紹介します。

近代建築 南海ビル
御堂筋から南海ビルをのぞむ

建築上の特徴

「南海70年のあゆみ(1957(昭和32)年)」の中で南海ビルのことを次のように紹介しています。

「間口は96間(約174.5メートル)、高さ百尺(約30.3メートル)延約13000坪、御堂筋の南端にその威容を誇ったのである。」

この長大な外壁は1~2階、3~6階の中層階、7階の軒飾りの3層のデザインで構成されています。

また、23の柱間のうち14本は大きなコリント式壁柱とアーチ式の開口部が施されています。柱頭部はアカンサス模様とガーランド(花綱)文様の飾り壷、アーチ頂部はキーストンで飾られています。

近代建築 南海ビル
1950年代の南海ビル(左は大阪球場)
近代建築 南海ビル
柱頭部とアーチ頂部の装飾

これらの外壁にはテラコッタ(素焼きで仕上げられた彫刻)が用いられ、これは国産の伊奈製陶製です。

建物全体は「近世復興式」のルネサンス様式とし、装飾にはアールデコ様式を用いることにより、格調高く華やかなデザインとなっています。

建築の歴史と設計者

初代の難波駅は、日本最古の純民間資本の私鉄である阪堺電鉄のターミナル駅として1885(明治18) 年に建設、開業されました。

そして、現在の南海ビルは4代目の難波駅舎として1932(昭和7)年に完成。御堂筋の南の終点にそびえるランドマークとして誕生しました。御堂筋はその後の1937(昭和12)年に完成します。

近代建築 南海ビル
南海ビル屋上から御堂筋をのぞむ
近代建築 南海ビル
屋上の装飾塔

建物の東側には高島屋大阪店(当時は髙島屋南海店)が入店、冷暖房が完備され当時としては最先端の百貨店でした。中央部には今後の乗降客の増加も見込んで壮大な駅ホールが新設されました。
設計した久野節(くのみさお)は大阪府南部の出身で、鉄道省で技師として勤務し直轄による鉄道建築の設計を統括、国会議事堂の建設計画にも関わっています。その後独立し久野建築事務所を設立、浅草雷門駅や宇治山田駅はじめ数多くの鉄道ターミナルビルの設計を手がけました。

南海ビルとなんばのまちづくり

大阪万博後の1972(昭和47)年には沿線の人口増加に対応するため、南海電鉄は南海難波駅改造事業に着手、コンコースやホームを3階に移設し拡大、ロケット広場やなんばCITY開業しました。南海ビルはそのまま残りました。

この事業を記念して、画家の伊藤継郎氏の原画を元に「南海沿線の祭り」をイタリア製モザイクガラスで描かれ1階の壁面に飾られていますのでぜひご覧ください。

近代建築 南海ビル
モザイクガラスで描かれた「南海沿線の祭り」

2007(平成19)年には南海ターミナルビル再生事業に着手、コンコースは一新され、ターミナル内には周辺のまちとつながる動線が生み出されました。

南海ビルの隣接地には2009(平成21)年に髙島屋大阪店が増床を行い、全面ガラス張りの内照部分は南海ビルのアートをモチーフにデザインされています。2011(平成23)年には南海ビル外壁美装化工事が完成、有形文化財に登録されました。屋上部にはガラススクリーンを設置、ライトアップのための建物照明も付け加えられ、テナントの看板文字も景観に配慮して薄墨色に修景されました。

近代建築 南海ビル
屋上部のガラススクリーン(右上)
近代建築 南海ビル
壁面にとりつけたロゴの色も意匠に配慮

以上のように、南海ビルはターミナルビルとして時代の要請に応じて変化しながら保存・再生されてきました。

そして、現在、この南海ビル前の広場をひと中心の空間に改造する事業が進んでいます。歴史的な建築物を眺めながら市民がゆっくりと広場で憩い、観光客が記念撮影をする光景が日常のものとなることでしょう。

具体的な内容はこちらで紹介していますので合わせてお読みください。

近代建築 南海ビル
南海ビルの前のなんば駅前広場が人中心の空間に

久野節により設計された南海ビルがしっかりした構造で保たれ、なんばのまちのシンボルとして根付いていたからこそ、建物の周辺も含めた都市空間のリノベーションの中で建物がより一層活かされるのでしょう。南海ビルに引き続き注目を!

南海ビルの建築概要

構造階数 鉄骨鉄筋コンクリート造7階一部8階地下2階建、装飾塔付
建築面積/5915㎡
竣工年/昭和7年(昭和32年・昭和55年・平成21年に改修)
所在/大阪市中央区難波5-12
設計/久野節
施工/大林組
2011登録有形文化財27-0541 2011.01.26 
御堂筋南端に位置する南海難波駅のターミナルビル。SRC造八階地下二階建。角を曲線で処理し、飾り壺を戴くコリント式の壁付円柱とアーチの連続で壁面を構成する。エントランス上部や屋上の装飾塔など随所に装飾が配され、華やかで格調高い外観を実現する。

資料「鉄道人物伝 ターミナル建築の第一人者 久野節(公益財団法人鉄道総合技術研究所2018.9)」
  「日本紳士録(交詢社)」
  「南海70年のあゆみ(南海電気鉄道株式会社1957年)」
  「南海鉄道発達史」南海電鉄株式会社(1938)
  「建築と社会『再読 関西近代建築(17)南海ビルディング(南海ビル)山形政昭』」(2010.08、日本建築協会)

ゴシックスタイルの大正建築【大阪日本橋キリスト教会 】

教会は地下鉄日本橋駅から歩いて1分ほどの堺筋に面しており、斜め向かいには生鮮など食材専門店が集まる黒門市場の出入口が見えます。

日本橋(にっぽんばし)エリアは、古書のまちから電気街、今は観光のまちへと変化してきましたが、教会は1925(大正14)年当時の姿で残っています。

今回初めて、設計者の詳しい経歴をお聞きすることができ、建築家ヴォ―リスとのゆかりがあることがわかりました。建築上の特徴、教会の歴史、建物を保存・改修した時のご苦労など、貴重なお話を津村春英牧師にお伺いしました。

近代建築 日本橋キリスト教会
黒門市場方面からみた教会
近代建築 日本橋キリスト教会
堺筋の向かい側からみる

建築上の特徴

教会の玄関は先端の尖った尖頭アーチの形をしています。その両側にある2つの丸窓のガラスは花びら模様にかたどられた細い金属の桟で装飾されており、窓の廻りにはキーストーンが4つ取り付けられています。玄関の上部には3つの窓が並び、さらにその上に5つの高窓が均等に並んでいます。

近代建築 日本橋キリスト教会
尖頭アーチの形をした教会玄関
近代建築 日本橋キリスト教会
4つの窓とその上の5つの高窓

1階は集会室や控室などに使用されています。1階は2階よりも張り出していて、その天井にガラスをはめて明かりをとり入れ、柔らかな光が集会室内部に届いています。

近代建築 日本橋キリスト教会
1階集会室の明かりとり
近代建築 日本橋キリスト教会
2階の丸窓

2階の礼拝堂は天井が2階分の高さとなっています。鉄筋コンクリートの柱とその間に煉瓦を積んで固めた壁と梁が一体となってこの大きな空間を支えています。改修時に壁のコア抜き調査を行ったところ、腐食も進んでいないことが確認されました。壁面は漆喰で仕上げています。

近代建築 日本橋キリスト教会
2階の礼拝堂
近代建築 日本橋キリスト教会
2階の礼拝堂は天井が高い

礼拝堂に設けられた下側の窓は改修の際に交換されましたが、上側のアーチ状の高窓は創建当時のままです。下側の窓も一ヶ所だけ創建当時の姿で保存されています。

近代建築 日本橋キリスト教会
上側のアーチ状の高窓と下の左端の窓は創建当時のまま
近代建築 教会
礼拝堂中2階のギャラリー

松製の長椅子や、寄木の市松張りの床は、創建当初からのものです。

近代建築 日本橋キリスト教会
松製の長椅子
近代建築 日本橋キリスト教会
寄木の市松張りの床

2001年に大規模な改修を行い、スロープやエレベーターの設置、玄関扉、礼拝堂のシャンデリアや窓の交換をはじめ、老朽化に対応するとともに現代的な機能が加えられました。

創建当初の姿をできる限り残し、当初の意匠と調和するように修景が行われています。外壁も当初の意匠に復元されました。

近代建築 日本橋キリスト教会
玄関はスロープを設置
近代建築 日本橋キリスト教会
デザインに配慮された窓の新しいストッパー

教会と建築物の歴史

宗教法人「大阪日本橋キリスト教会」は、明治36(1903)年に、牧師の河邊貞吉師が旧大阪市南区玉水橋南詰にある一軒家を借りて礼拝を始めた「大阪伝道館」に始まります。

玉水橋の南詰は、現在の浪速区日本橋5丁目~日本橋東3丁目付近にあたります。今は高速道路が通っていますが、かつては高津入堀川が流れており、そこに玉水橋がかかっていました。新世界で行われた内国勧業博に集まる多くの人に布教しようとこの場所を選んだようです。

その後現在の日本橋に移転、焼失に遭い火災に強い建物にしようと鉄筋コンクリート造で1925年に再建されました。

当時の玉水橋の位置が「大大阪パノラマ地図(著者:美濃部政治郎、出版:和楽路屋、1925(大正13)年)でわかります。また、移転後当初の木造教会も地図に載っています。

伝道者を養成するためにこの教会が設けた伝道学館(1905年)が、現在の大阪キリスト教短期大学(阿倍野区)です。

近代建築 日本橋キリスト教会
玉水橋とその周辺(大大阪パノラマ地図)

設計者について

設計は山中茂一氏、施工は岡本工務店です。

山中氏は関西商工学校建築科で学び、辰野・片岡設計事務所に就職します。大正4(1915)年には渡米しサンフランシスコ万国博覧会のパビリオンの組み立てに従事、その後はオークランド市の外国人学校で英語を学びながら設計の仕事にも携わり、帰国後は岡本工務店で働きました。

その当時の岡本工務店はヴォ―リス建築設計事務所が設計した日本聖公会川口基督教会(大阪市・大正9(1920)年)や日本基督教団大阪教会(大阪市・大正11(1922)年)、近江岸家住宅(堺市・昭和10(1935)年)を施工しています。

山中氏は、この教会(1925(大正14)年)と江戸堀コダマビル[旧児玉竹次郎邸](1935(昭和10)年築)の設計を担当したことがわかっています。独立後は大阪キリスト教短期大学(1951年築)の設計を行いました。

そのような経過から、2001年の大規模改修の設計は一粒社ヴォ―リス建築事務所が担当しました。

時代によって大きく変化する日本橋のまちの中に残る、貴重な歴史的な建築物です。日本橋に足を運ぶことがあれば、堺筋に面してたたずむ瀟洒なデザインの教会を外から眺めてみてください。

近代建築 日本橋キリスト教会
前方から後方のギャラリーをのぞむ

大阪日本橋キリスト教会の建築概要

構造階数 鉄筋コンクリート造2階建て

建築面積/342㎡

延床面積/670.43㎡

竣工年/1925(大正14)年

所在/大阪市中央区日本橋一丁目20番4号

設計/山中茂一

施工/岡本工務店

改修年/2001年(平成13年)

改修設計監理/株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所

改修施工/株式会社奥村組

2000 登録有形文化財 第27-0090号 2000.04.28

有形文化財として答申された概要には次のように記されています。「玄関部の尖頭アーチの入口,3階の5連の尖頭アーチ窓などゴシックスタイルを基調とするが,堺筋沿いの街路景観に溶け込むように正面ファサードを概ね平板につくっている点に特徴がある。」

道頓堀の凱旋門と謳われた【大阪松竹座(外壁保存)】

ミナミといえば芸能文化。その中心を担ってきた道頓堀で演劇の興行が行われている劇場は、大劇場の大阪松竹座と小劇場の道頓堀ZAZA(中座跡)です。大阪松竹座は関西初の洋式劇場として誕生し、その後外観を保存して劇場部分を建て替えて、歌舞伎をはじめ演劇の公演が行われています。

近代建築 松竹座
大阪松竹座を御堂筋から臨む
近代建築 松竹座
道頓堀商店街と大阪松竹座

建築上の特徴

2階から5階にかけて大きなアーチとオーダーで構成するネオ・ルネサンス様式です。

装飾はアメリカのアトランティック社製のテラコッタを用い、アイボリー色でマット釉により落ち着いた質感のある仕上げとなっています。

1階の外壁は岡山の北木石(北木島産花崗岩)が用いられました。

近代建築 松竹座
外観のライトアップ(提供:大阪松竹座)
近代建築 松竹座

建築当初の客席は鉄骨鉄筋コンクリートで造られオーケストラピットをもつ大空間の劇場でした。

飲食施設は、地下は和洋食堂、2階に日本食堂、3階に欧風食堂、4階には酒場が設けられていました。当時のメニュー表をみると洋食や洋酒の種類が豊富で「松竹ビーフステーキ」「松竹コクテル(カクテル)」といったオリジナルメニューも。

近代建築 松竹座
建築当初の大阪松竹座
近代建築 松竹座
建築当初の劇場内部(©松竹株式会社)

建築の歴史と設計者

大正時代、海外の劇団や音楽家が来演する機会も増え始め、松竹株式会社創業者の白井松次郎氏は、国際的に通用する大劇場が大阪に必要だと考えます。そして、1923(大正12)年、椅子の観覧席をもつ本格的な洋式劇場が関西で初めて誕生しました。

天才少女ヴァイオリニスト辻久子さんが9歳でデビューを果たし、道頓堀行進曲もここで演奏され、OSK松竹歌劇団による「春のおどり」は大阪の名物となりました。

戦後は松竹映画や洋画の封切専門館として使用されます。「風とともに去りぬ」や「ラストエンペラー」など大ヒット作品が上映される一方、ルイ・アームストロングをはじめ名だたるアーティストの公演が行われました。しかし、劇場として本格的な実演の機会は少なくなっていましたし、老朽化も進んでいました。

一方、関西では昭和53(1978) 年に「関西で歌舞伎を育てる会」が設立され歌舞伎の再興を願う声が高まっていました。関西での歌舞伎公演は当時、朝日座、中座、南座で開催されていましたが、演劇の殿堂となる新しい大劇場が必要と考えた松竹は、最終的に建て替えを選択すると同時に、「道頓堀の凱旋門」とよばれた外観の保存を決定しました。

こうして1033席を有する本格的な歌舞伎興行の劇場が誕生、1997(平成9)年3月に新築開場記念柿葺落公演が行われました。

工事及び設計は株式会社大林組が担当し、設計並びに監督は工学士の鈴木甫氏、製図主任は木村徳三郎氏です。

大阪松竹座の今

外観が保存され劇場部分を建て替えたことにより、正面玄関の「洋」のデザインから「和」の劇場へといざなうようにインテリアが施されています。

1階の壁や床には大理石が用いられ、ロビーの正面にはフランス人画家ベルナール・ビュッフェが日本の伝統芸能の美意識や技法を独自の視点で描いた作品「暫」が飾られています。

エスカレーターで2階にあがるとメインロビーに。中島千波画伯によって描かれた花鳥風月12枚の花図鑑が両側の壁に飾られだんだんと和の空間になっていきます。

劇場内部に入ると、可変式のプロセニアムアーチにより歌舞伎だけでなくミュージカルなどの公演にも対応できる仕様となっています。また最高クラスの回転速度をもつ廻り舞台、本花道と仮花道、宙乗り装置、オーケストラピットといった最新舞台機構を備えています。

地下2階は飲食店街となっています。ここには麦酒醸造工場があり、麦芽100%で醸され和食にあうクラフトビール「道頓堀地ビール」を楽しめます。

近代建築 松竹座
劇場内(©大阪松竹座)

大阪松竹座の建築概要

【建築当初】

所在/大阪市中央区道頓堀1-9-19

構造階数 鉄骨鉄筋コンクリート造5階建

高さ  74.03尺(22.43m)

設 計/木村徳三郎(大林組設計部)

施 工/大林組

竣工年/1923(大正12)年

【改築後(劇場部分)】

構造階数 鉄骨鉄筋コンクリート造7階地下2階建

建築面積/1,545.62㎡

延床面積/11,253.84㎡

竣工年/1997(平成9)年新築

設計/ユー・アソシエイツ、大林組

施工/大林組清水建設協働企業体

資料:「新築開場記念 大阪松竹座(松竹株式会社・1997年)」

   「松竹座建築概要(松竹合名社・大正12年5月)」

【もと精華小学校】の歴史が活かされたエディオンなんば本店

現在、エディオンなんば本店がある場所には、精華小学校・精華幼稚園(以下「もと精華小学校・もと精華幼稚園」とします)がありました。明治6年に開校、1929(昭和4)年に新しい校舎が建てられました。

その後、1995(平成7)年に閉校し、校舎は生涯学習ルーム、体育館は精華小劇場に暫定利用され、その後跡地は処分されました。そこに建築された建物には、もと精華小学校・もと精華幼稚園の歴史が活かされています。

建築上の特徴(従前の建物)

校舎は鉄筋コンクリート造で、地下1階、地上4階と大規模なものでした。

近代建築 精華小学校
昭和5年竣工時の鳥瞰写真

20人乗りのエレベーター2基や暖房装置が設置されており、地下1階の採光のために1階廊下にガラスブロックを設置、1階に体育館のある棟の4階にも大空間をもつ講堂が設置されていました。

近代建築 精華小学校
往時の校舎(東面)
近代建築 精華小学校
(左)戎橋筋商店街側の正門  (右)2階にあがる階段

設計は、増田清氏です。福島県出身で大阪府の技師として公共建築物の設計に携わりその後独立します。大阪市内で15の小学校を設計しています。南船場にある三木楽器本店ビル(国有形登録文化財・大正13年築)も手掛けています。

近代建築 精華小学校
廊下の中央はガラスブロック
近代建築 精華小学校
4階の講堂

もと精華小学校・もと精華幼稚園跡地の今

公共用地の処分計画に沿って跡地活用が進められ、企画提案方式により建設された建物にエディオンなんば本店が2019(令和1)年に開業しました。

なんばの地域性や歴史性を生かした提案にそって、学校敷地内にあった桜の木やレリーフはエディオンなんば本店の敷地内に移設されました。

また、新しい建物の東側の壁面や照明器具は精華小学校の外観をモチーフにしてデザインされました。建物内には精華メモリアルルームが設けられて往時の写真や学校の備品が展示されています。

近代建築 精華小学校
エディオンなんば本店の東側壁面
近代建築 精華小学校
元の敷地内にあった桜の木やレリーフ
近代建築 精華小学校
精華メモリアルルーム
近代建築 精華小学校

繁華街にあるため児童には商売人の子弟が多く、戦後間もない頃に朝食抜きで登校する児童が多かったことから朝食の給食が出されたこともあります。

また、学校に現金をもってくる児童がお金を預ける「子ども銀行」も行っていました。実際に預金を預かり利息を付けていました。都心にある学校らしく独自の工夫で児童を育んでいたのです。そのような歴史も紹介しています。

また、校舎内にあったピアノのうち1台はストリートピアノとしてなんばCITY内で活かされています。

もと精華小学校・もと精華幼稚園の建築概要(従前の建物)

構造階数 鉄筋コンクリート造4階地下1階建

延床面積/8300㎡(竣工当時)

竣工年/1929(昭和4)年

設 計/増田清

資料:「精華小学校122年のあゆみ(精華小学校)」

大阪市内で最大規模の幅をもつ【道頓堀橋】

大阪市内でも、幅の広さが最大規模で、昭和の初めに建設されたのが「道頓堀橋」です。

道頓堀橋は建築物ではなく土木構造物ですが、御堂筋の整備と一体に1936(昭和11)年に整備されましたので、番外編として紹介します。

道頓堀橋は御堂筋が道頓堀川と交差する場所に架かっています。その一つ東側(川上側)には有名な戎橋が架かっています。

近代建築 道頓堀橋
道頓堀橋(西側から撮影)
近代建築 道頓堀橋
道頓堀橋(南西側から撮影)

大阪市内で現存する最古の橋は本町橋(大正2年(1913)ですが、道頓堀橋は単独の橋としては現在大阪で幅の広さが最大規模の橋です。

御堂筋の整備にあわせて新たに架けられ、基礎は地下鉄御堂筋線と一体とになっており、鋼板の桁が用いられています。

道頓堀川沿いに設けられた遊歩道「とんぼりリバーウォーク」はこの橋の下をくぐることができます。当初は道頓堀橋の場所では橋桁と水面の桁下クリアランスが2メートル少ししか確保できず、法律で定められた最低限の基準である2.5メートルをクリアできず、空間的にも制約がありました。

これに対して地元の意向や水都の会(水都大阪を考える会)の尽力と大阪市の決断により、遊歩道を水面よりも下げる工法を採用することによりその課題を乗り越えました。道頓堀橋の区間が長いために空間を明るくし有効活用するためギャラリーも設置されました。

近代建築 道頓堀橋
遊歩道は御堂筋の下をくぐることができる
近代建築 道頓堀橋
アンダーパスにはギャラリーが設けられている

各方面の努力により、とんぼりリバーウォークの堺筋から四ツ橋までの遊歩道がすべてつながったのです。

道頓堀橋の概要

橋長:38.2メートル
幅員:43.6メートル
形式:桁橋
完成:昭和11年

マップとおすすめ探訪ルート

近代建築マップ

マップには、今回紹介した近代建築とあわせて、ぜひ訪れてほしい戦後のレトロ建築の場所も示しています。

たとえば、道頓堀橋をスタートして大阪松竹座➡戎橋筋商店街を南下してアラビヤコーヒー➡ホテルロイヤルクラシック大阪➡精華メモリアルホール➡南海ビルへ。

なんば南海通りを通って味園ビル➡本せきぐち➡大阪日本橋キリスト教会へ。堺筋を渡って➡黒門市場➡旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)でゴール。これで、直接距離にして約1キロメートル少しです。

昭和なレトロ建築はあらためて特集記事で紹介します。

近代建築 アイキャッチ

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